ゲーテという人
ゲーテに魅せられている。
ゲーテとは、言わずもがな、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテのことである。
ゲーテは、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家と、まさに真のマルチタレントであり、晩年は政治家としても活躍した。18世紀末から19世紀初頭という時代、日本で言えば、幕末から明治の頃の人である。
彼の人柄は「ゲーテとの対話」(エッカーマン著)に詳しい。晩年のゲーテと多くの時間をともにしたエッカーマンは、ゲーテと接するといつも心が爽やかになり、彼がいついかなるときも平静の心を保ち、泰然とした風格を備えていたことを記している。
私の中でのゲーテの印象は、長らく「若きウェルテルの悩み」の作家という位置付けだったのだが、最近、ゲーテを知れば知るほど、彼が非常に偉大な精神の持ち主であったことを知ることになった。
ゲーテに「色彩論」という著作がある。彼は、色光の円環説を唱え、ニュートンの色彩論(色光を直線的なスペクトラムによって説明する理論)を批判した。彼が批判したのは、近代科学の機械論的世界観であった。ゲーテという人を知れば知るほど、彼がいかに人間を愛したかということが分かる。
後世から見れば、ニュートンによるスペクトラム論による説明が勝利したように見える。つまり波長の短い光は紫に見え、長い波長は赤に見えるというあれである。しかし、ゲーテの円環的色彩論は、シュタイナー教育に継承されることになった。
シュタイナー教育では、子どもたちが水彩画で描くことを基本にしている。色は互いににじみ合い、融合する。そして自然の中の対象物は、人間も含めて、このにじみあい、融合するような色の集合体であるという世界観を持つ。この色彩論はゲーテの円環的色彩論を発展させたものである。
さて、ゲーテである。ゲーテの著作には小説「ヴィルヘルム・マイスター」や「親和力」、詩集「ヘルマンとドロテーア」など、死ぬまでにはいつかという未踏峰がいくつもあるのだが、その中でも彼の最後の作品「ファウスト」は別格であろう。
ちなみに手塚治虫に「ネオ・ファウスト」という未完の作品がある。手塚が胃がんで入院していたベッド上でも描き続けた最後の作品である。ゲーテの作品と同じく、生命の本質と宇宙の神秘という究極のテーマを、悪魔メフィストフェレスに誘惑される大学教授一ノ関を、1970年代の日本という設定で描いている。
昨夜、新潮社の「ファウスト」(高橋義孝訳)を読み始めた。小説と思っていたが、戯曲であった。しかし現代語訳であるため、とても読みやすい。
ファウストのあらすじは有名すぎるので、ここでは繰り返すまい。ゲーテは、実在したという言われる錬金術師ファウストゥスの伝説を下敷きに、ほぼ一生(60年間)をかけて、この長大な戯曲を書き上げた。まさにゲーテが最もエネルギーを注いで完成させたであろう最高峰の作品であり、彼がこの謎に満ちた人間の「生」をどのように考えていたのかが表現されているはずである。
私はこのような作品を読むとき、身震いがするような興奮を覚える。このような作品は、例えばドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読むときや、三島由紀夫の「豊饒の海」四部作を読むときに感じるものと同じである。特に三島は、自分の死を計画し、その死の直前までこの作品を書き続けたので、彼が人間の生と死をどのように捉えていたのかの全てが、この作品にこめられていたはずである。そして読了したとき、期待に違わぬ満足感を覚えつつも、一度では深く理解できないという未消化感も味わうことになる(特に「天人五衰」は難解なため、人によっては駄作とけなす者さえいる)。しかし、これらの作品は繰り返し読むに値する人類の財産、金字塔であることは間違いない。
さて「ファウスト」第一部の冒頭から伝わってくるのは、人類の叡智を極めたようなゲーテその人が晩年に感じていたであろう諦観、あるいは懊悩である。
おそらくゲーテの分身たるファウスト博士が語る。
「いやはや、これまで哲学も、法律学も、医学も、
むだとは知りつつ神学まで、営々辛苦、究めつくした。
その結果はどうかといえば、
昔に較べて少しも利口になってはおらぬ。
学士だの、おこがましくも博士だのと名告って、
もうかれこれ十年間も弟子どもの鼻面を
縦横無尽に引き回してきはしたもののーー
さて、とっくりとわかったのが、
人間、何も知ることはできぬということだとは。」
さてさて、この「ファウスト」という物語はどこへ向かい、この先何が語られているのだろうか。
私の「ファウスト」の旅は始まったばかりである。
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