四季の循環と人それぞれの「秀実のとき」——『留魂録』にみる吉田松陰の死生観
吉田松陰(よしだ しょういん、1830 - 1859)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。吉田松陰の『講孟余話』に関する過去記事も参照のこと。
引用したのは『留魂録』からである。この書は松陰が死刑に処される前日、小伝馬町獄で門弟たちに宛てた書である。したがって、松陰最後の書である。完全に死を覚悟した上での文章であるが、実に見事に書かれている。少しも乱れたところがない。あとに続く同志のために、役に立つことはすべて書き残していくという気概で書かれている。
松陰が亡くなったのは29歳、数えで30歳の年であった。あまりに短い人生である。しかも国家によっていわれのない罪によって死刑に処されるというのである(彼の死罪の直接の原因となったのは、訊問の中で聞かれてもいない、ある要人暗殺計画を話したからであった)。しかし、松陰の心は死を前にして少しも騒ぐところがないという。「死を決するの安心(あんじん)」と書いている。
それは四季の移り変わりが物の道理であるように、「西成(秋に物の成熟すること)に臨んで歳功の終る」ことを悲しむのを聞いたことがないからだと、自らの死を四季の移り変わりに例えている。三十歳にして、まだ一事も成し遂げていないかのように思われるけれども、そうではない。実に一つの「秀実のとき」を迎えたのだというのである。
この後の文章は次のように続く。人間の寿命は定めなきものである。10歳で死ぬ者には10歳の四季が備わっているものである。20歳で死ぬ者には20歳の四季が、30歳で死ぬ者には30歳の四季がある。10歳で死ぬのが短いというのは、数日で死ぬ運命にある夏蝉の運命を、百年も千年も経過した椿の木の寿命に引き延ばそうとするようなものである。100歳で死んだから長いというのは、その長寿の椿を、短命の夏蝉にしようとすることである。自分は30歳になり十分に成長もし、実りもした。自分のつけた稲穂が実の入ったものであるか、そうでないかは、自分の知るところではない。もし同志のうちに、自分の志を受け継いでくれるものがあるならば、そのときこそ後に蒔くことのできる種子がまだ絶えなかったということであり、おのずから収穫のあった年に恥じないということだろう。
実に見事な死生観である。松陰は言う。人の寿命は短いから実りがなく、長いから実りがあったということではない。四季が移り変わるように、人の命も必ず終わりを迎えるのであって、その寿命は人によって長い、短いという違いはあるけれども、それぞれの「秀実のとき」を迎えているのであると。人それぞれに何らかの実をつけている。ただ、自分に関して言えば、30歳という寿命を受け入れ、これまで何らかの実をつけているのであれば嬉しいけれども、それが本当に後に続くような種を残せているかは分からない。それは後の世の人が判断してくれれば良いのであって、自分としては悔いはないという松陰は綴っている。
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