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身体の「獄中の聴衆」としての感情——ダマシオ『デカルトの誤り』を読む

このような観点からすれば、感情とは、人間の特質と環境との適合または不適合に対するセンサーである。ここで言う特質とは、遺伝的に構築されわれわれが受け継いだ一群の適応という特質と、意識的、意図的であるかないかにかかわらず、社会的環境との相互作用をとおしてわれわれが個人的な成長の中で獲得してきた特質の、双方を意味している。感情も、そしてそれを生み出している情動も、けっして贅沢品ではない。それらは内なるガイドとして機能し、われわれが他者に合図を伝えるのを助け、今度はその合図がまた彼らをガイドする。感情は実体のないものでもなければ、捉えがたいものでもない。伝統的な科学的見解に反し、感情はまさに他の知覚と同じような「認知」である。感情は、脳を身体の「獄中の聴衆」〔いやでも話を聞かされる聴衆〕に変えてきた、きわめて興味深い生理学的仕組みの産物なのだ。

アントニオ・R・ダマシオ『デカルトの誤り:情動、理性、人間の脳』ちくま学芸文庫, 2010. p.26.

アントニオ・ダマシオ(Antonio Damasio, 1944 - )は、ポルトガル系アメリカ人の神経科学者。意識・脳・心身問題・感情・情動などを研究テーマとする。特に意思決定や価値判断に関する「ソマティック・マーカー仮説」の提唱者として知られる。その研究は神経科学だけでなく哲学・心理学・ロボット工学にも影響を与えている。

ダマシオの1994年の著書『デカルトの誤り(Decartes' Error)』は、理性的な思考と決断の生理学、そしてその能力がダーウィンの自然淘汰によってどのように進化してきたかについて述べている。一般人向けに書かれた本書は、1848年に起きたフィネアス・ゲージという人物の劇的な脳損傷事故の事例を参考にしつつ、現代の複数の臨床例から得られたデータを盛り込みながら、感情と理性が解剖学的に切り離された場合の有害な認知的影響について書いている。ここで提示された「ソマティック・マーカー仮説」とは、情動が行動や意志決定を導くために重要な役割を果たしていることを提案するものである。つまり「合理性」というのものには情動の入力が必要であると仮定し、従来の理性と情動(感情)とが全く別物であるというデカルト的仮説を否定している

また、ダマシオは心と身体が二元論的に分離されるというデカルトの考え(心身二元論)も否定する。感情とは心の中だけで起きている現象ではなく、感情が起きるためには身体的なものの認知が必ず必要になるという。感情とは人間の特質と環境との適合/不適合に関するセンサーのようなものであり、その人間の特質には遺伝的なものと後天的に獲得したものの両方が含まれる。感情は、他の知覚と同じような「認知」の一種なのであり、そこでは脳が身体に対する「獄中の聴衆」という役割を演じているような生理学的プロセスだというのだ。

ダマシオは感情の本質とは、ある対象に結びついている捉えがたいメンタル・クオリティといったものではなく、ある特定の風景の(つまり身体の)直接的知覚であると主張する。感情が依存している重要な神経科学的ネットワークには、従来認められてきた辺縁系としての知られる一連の脳構造だけでなく、前頭葉皮質の一部と、身体からの信号をマッピングしている脳の諸部位が含まれるという。間断なく更新されていく私たちの身体の構造と状態を、直接見渡せる窓を通して私たちが見るもの、それがダマシオの考える感情の本質である。身体の「状態」とは、身体が占める空間におけるそれらの物体の光と影、動きと音のようなものである。この身体風景において、物体は内蔵(心臓、肺、腸、筋肉)、光と影、動きと音は、ある瞬間におけるそれらの器官の作用範囲内の一点を表している。おおむね、感情とは、そういう身体風景の一部の、一瞬の「光景」である。

人間の脳と身体は分かつことのできない一個の有機体を構成している。そしてこの有機体は環境と相互作用している。そして、私たちが心と呼んでいる生理学的作用は、その構造的・機能的総体に由来するものであり、脳のみに由来するものではない。心的活動は、ごく単純なものからきわめて精緻なものまで、脳と身体の双方を必要としている。これらがダマシオが本書で主張したいことである。


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