「家(チベ)の歴史を書く」を読む

2020年最後のゆるい読書会@とっとりでは、林沙羅さんの「家(チベ)の歴史を書く」(筑摩書房)をみなで読んだ。
この本は著者自らの家(ルーツ)の歴史をたどるように、自分のおじやおばなどに話を聞き、それを生活史としてまとめた本である。

生活史を書くということ

著者はいわゆる在日コリアン二世。済州島出身のおじやおばにまつわる一族の歴史を、どのように彼らが激動の時代を生き抜いたか、という視点から描こうとしたわけだが、その著者の目論見はインタビューが進むにつれ、もろくも崩れていく。例えば、済州島から日本に「密航」する途中で逮捕され、刑務所に入っていたおばの話。

「毎日、楽しかったよ。食べ物も毎日出るし、自分と同じような境遇の人がたくさんいて話もたくさんできたからね」

と、おばの口からは、傍目には過酷だったはずの刑務所体験も、このようにあっけらかんと語られるのであった。

また、済州島四・三事件という1948年当時に起きた島民数万人の虐殺事件を体験したおじたちの話は、このように語られる。

「こわくはなかったね。子供だったからかもしれないけれど、死ぬとか、こわいという意味が分からんかった」

著者は社会学者であり、学問的な観点からも、自分の家族がどのように集合的な記憶としての「歴史」を主観的に経験したのか、それを「生活史」としてまとめるというのはどういうことなのか、といったことについて、常に迷いながら立ち止まり、自分の立ち位置を振り返りつつ、文章が書き進められていく。

その著者の視点の「とまどい」が読者にも伝わってきて、この本をどのように読んだらよいのか、少し迷子になってしまう感もあるのだが、学者としての誠実性や緻密性が伝わってくる良い文章であると私は感じた。

読書会参加者はどう読んだか

読書会では以下のような意見が出た。

・ 自分の在日のヒストリーと比べながら読んだ
・ 違う言葉(ラベリング)で自分を見る:「在日」か「移民」か
・ 「家」の問題:親族で正月に集まるということが煩わしいという思いと、無くなると寂しいという思い
・ 事実の時系列的な歴史と、家族が主観的に経験した歴史、それをどう統合的に理解していけばいいのか?
・ 貧困は辛くなかったが「読み書きできなかったことが一番辛かった」というおばの話→主観的な経験の圧倒的なリアリティ
・ 「オーラルヒストリー」の面白さ(ex. 映像によるオーラルヒストリー「私はおぼえている」)
・ ネットの情報では拾い上げられないもの:おそらく人から話を聞くということは時代が進んでも無くならない

スクショ(Jamboard)


ちなみに、私も在日コリアンの一人である。本書で書かれていることは、私の親戚コミュニティでもほぼ同様のエピソードが多数あり、戦前戦後に彼らが経験し感じていたこと、それらのエピソードの語られ方には多くの共通点があった。おそらく本書で書かれていることは、多くの在日コリアンに普遍性をもつ集合的体験の一つの表現形であろう。

「語り得ぬもの」について

最後に、林沙羅さんが本書で述べていた「『語り得ぬもの』というのはおそらくない」ということについて考察してみたい。

「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」とは哲学者ウィトゲンシュタインの有名な言葉であるが、これは論理的な帰結として「『語り得ぬこと』というのは言語表現の限界の外にあるものが常に存在するのであって、それについては語ることができないからこそ『語り得ぬもの』なのである」ということだと私は解釈している。これからすると、林沙羅さんの主張に反論する向きもあるであろう。

しかしながら、林沙羅さんのいう「『語り得ぬもの』は存在しない」の言葉の意味は、オーラルヒストリーのコンテキストにおいて、話者の言葉に「語り得ぬもの」があるようなとき、それは私たち聞き手の理解や準備状態が不十分なことが多い、ということのようだ。むしろ、条件を整えていくことで、語り得ぬものはちゃんと語られる、むしろそうやって私たちは誠実に真摯に、話し手の物語を聞き取って理解していかなければいけない、という強い意思表明であるように感じた。

鳥取大学医学部地域医療学講座HPブログ 1月7日分より転載)

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