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ハイデガーはなぜナチスに加担したか——ハンス・ヨナスのグノーシス主義的解釈

ヨナスは、『存在と時間』におけるこうした自然概念の理解が、自然科学における自然観を下支えする機能をもつと解釈します。「実存主義による自然からのこの価値剥奪は、近代の自然科学による自然からの心的なものの廃棄が明らかに反映している」(『生命の哲学』369/407)。同時にそれは、世界を敵対的なものとみなすグノーシス主義との類似性を示すものでもあります。「そして、この価値剥奪にはグノーシス主義の自然蔑視とどこか通じるものがある」(『生命の哲学』369/407)。ただし、両者の間には明らかな違いもあります。グノーシス主義において、人間にとって自然はあくまでも敵対的です。敵対的である、ということは、自然が人間に対して敵意を持っているということを意味しています。それに対して、『存在と時間』における自然概念は、単なる観察対象であり、それ自体はいかなる関心も持ちません。つまり自然は人間に対して無関心なのであり、沈黙を貫いているのです。この意味において、『存在と時間』における人間の疎外は、グノーシス主義におけるそれよりも、はるかに深刻である、とヨナスは指摘します。

戸谷洋志『ハンス・ヨナスの哲学』角川文庫, 2022. p.208.

ハンス・ヨナス(Hans Jonas、1903-1993)は、ドイツ生まれの実存主義哲学者。ハイデガーとブルトマンに学び、ホワイトヘッドのプロセス哲学の影響を受けた。彼を著名にしたのは主著『責任という原理』であり、この本で近代技術が人間に及ぼす影響を論じ、「未来への責任」という概念を明確にした。また彼は実存主義の立場よりグノーシス主義を研究した書物も著している。ヨナスはユダヤ人であったことから、師であったハイデガーのナチス加担は彼に大きな衝撃を与えた。また彼の母はアウシュヴィッツ強制収容所で亡くなっている。ヨナスは当初シオニズム運動に身を投じながらも、戦後はアメリカに移住し、そこでハイデガーの下で共に学んだハンナ・アレントと再会し、親交を深めた。

ヨナスは、「20世紀の巨人」と呼ばれたドイツの哲学者ハイデガーの弟子であり、ハイデガーから深く影響を受けながらも、同時にハイデガーとの対決を試み、これを克服しようとした。この立ち位置は、サルトル、アレント、レヴィナスなどに共通するものである。彼の博士論文の主題はグノーシス主義の研究であった。グノーシス主義の世界観に対して、ハイデガーが『存在と時間』のなかで提示した実存論的分析論を応用することで、その核心を解明するというものだった。そしてそれは後に、ハイデガーの哲学自体にグノーシス主義との類似性を読み取り、それを批判していくという姿勢につながる。

グノーシス主義とは、地中海からオリエント地方にかけて、多様な信仰や思想の混淆によって形成された、ある特徴を共有する思想群である。その特徴とは、第一に、反宇宙的な二元論を取っており、この宇宙の創造主を悪しき神として説明し、それに対して善なる至高の神を対置しているということ。第二に、人間を善なる神に由来するものとして位置づけながら、本来ならば自分が属すべきではないはずの、悪しき神によって作られた宇宙に生まれ落ちていると考えること。そして第三に、このように非本来的な状況に陥っている人間が救済されるために必要なのは、自分自身の本来の姿を「認識」し、この宇宙から解放されることであるとしている、ということである。ギリシャ語で「認識」のことを「グノーシス」というが、こうした認識をいかに獲得するかという問いが、グノーシス主義の教義の中心をなしている。

ヨナスにとってハイデガーは、単なる指導教員に留まる存在ではなく、現代を代表する哲学者の一人であり、いわば「哲学」という看板を背負う象徴的な存在であった。だからこそ、そのハイデガーがナチスに加担したという事実は、ヨナスにとって衝撃的だったのであり、そして彼はこの出来事のうちに「哲学自身の敗北」を感じとったのである。

なぜ、ハイデガーはナチスに加担してしまったのか。それはハイデガーが愚かだったからなのか。あるいはハイデガーは、哲学者としては一流だったが、政治的な感覚については劣っていたからなのか。ヨナスはそのいずれでもないと考えた。むしろ彼は、ハイデガーによるナチスへの加担が、ハイデガーの哲学から導き出されてしまう理論的な帰結である、と考えたのである。

ヨナスは博士論文においては、グノーシス主義をハイデガーの哲学によって解釈するという手法をとった。しかしこの方法が有効であったのは、むしろハイデガーの哲学こそがグノーシス主義的であったからではないか、つまりハイデガーの哲学のうちに、グノーシス主義において特徴的な「宇宙への嫌悪」が内在しているからではないか、とヨナスは発想を逆転させる。そしてこのことは、ハイデガーを代弁者とする現代社会のニヒリズムと、そしてハイデガーがナチスに加担したという事実と、まさに照合すると考えられた。ヨナスは、ハイデガーの哲学のうちに潜むグノーシス主義的なニヒリズムを指摘することで、現代社会の気分を分析するという研究を「グノーシス主義と現代ニヒリズム」(1952年)や「不死性と今日の実存」(1962年)といった論考に結実させている。

ヨナスは、ハイデガーによるナチスへの加担を、その哲学から切り離すことができる政治的信条と見なすのではなく、あくまでも彼の哲学のうちに根ざす内的な問題の発露として捉えていた。それは言い換えるなら、ハイデガーの哲学はもとからナチスと親和性を持っていた、あるいは少なくとも、ナチスを正当化するロジックを提供するものであると見なしていた、ということなのである。

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