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社会学とは「比較」すること——見田宗介『社会学入門』を読む

マックス・ウェーバーと並んで社会学の最も重要な古典であるエミール・デュルケームは社会学の方法について考察した書物の中で、「社会学は比較社会学である」と記しています(『社会学的方法の規準』)。自然科学の基本的な方法は実験ですが、社会の科学ではふつう実験することはできません。一つ一つの社会には人間の生死、幸福と不幸、尊厳と悲惨が賭けられているからです。けれども人間が歴史の中で形成してきた無数のさまざまな「社会」のあり方は、これを外部から客観的に見ると、人々がそれぞれの条件の中で必死に試行してきた、大小無数の「実験」であったと見ることもできます。(中略)
このような社会学の方法としての「比較」は、〈他者を知ること〉、このことを通しての〈自明性の罠〉からの解放、想像力の翼の獲得という、ぼくたちの生き方の方法論と一つのものであり、これをどこまでも大胆にそして明晰に、展開してゆくものです。

見田宗介『社会学入門——人間と社会の未来』岩波新書, 2006. p.40-41.

前回の記事(「現代の若者は何に幸せを感じているか」)に続いて、社会学者の見田宗介(みた むねすけ)の書籍を取り上げる。本書『社会学入門——人間と社会の未来』は2022年に鬼籍に入った見田宗介の社会学に関する入門書であり、見田独自のさまざまな分析と洞察、いわば「見田社会学」の総決算と言えるものになっている。

見田は、社会学の方法論としてデュルケームの「社会学とは比較社会学である」という言葉を例に挙げる。エミール・デュルケーム(1858 - 1917)は、当時としては斬新な独自の視点から社会現象を分析し、経験科学としての社会学の立場(社会学主義)を鮮明に打ち出した人物である。実証主義の科学としてオーギュスト・コントによって創始された社会学が、未だに学問として確立されていない状況を見たデュルケームは、他の学問にはない独自の対象を扱う独立した科学としての地位を築くために尽力した。デュルケームの著作には『自殺論』(1897年)や『宗教生活の原初形態』(1912年)などがある。

見田は、自然科学の「実験」に相当するものが、社会科学においては「比較」であるという。それは社会の自然史がいわば無数の「実験」の結果であると見ることもができるからである。一つの「社会」は「幕藩体制」とか「資本主義」とか「社会主義」とか様々な形態を模索してきた。またそれは「企業」や「家族」といった小さな「社会」においてもそうである。それがどういう社会であるかは、他の企業、他の家族、他のシステムと比較することを通して、はじめて明確に認識し、理解することができる。マルクス、デュルケーム、ウェーバーのような古典的な社会学の理論家だけでなく、バタイユ、フロム、リースマン、パーソンズ、マルクーゼ、レヴィ=ストロース、フーコーなども、様々な独創的な比較を通して「近代社会」「現代社会」を分析してきたという。

そして、その比較による自己のあり方の認識は、社会学にとどまるのみならず、私たちの「生き方の方法論」でもあると見田は述べる。それは、自分と他者を比較することによって私たちは「自明性の罠」から解放されるのであり、「想像力の翼」を獲得することができるからだという。このようなことを私たちは日常においても行なっている。それを社会全体に大胆に、そして明晰に展開していくものが「社会学」だというのである。



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