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哲学者とは死ぬことを心がけている者である——プラトンの『パイドン』を読む

それでは、シミアス、真の哲学者は死ぬことを心がけている者であり、彼らがだれよりも死を恐れない者であるということは、ほんとうなのだ。
こういうふうに考えてみたまえ。もし、彼らがつねに肉体とあらそい、魂を魂だけにしたいと願っておきながら、それがいざ実現するとなると、恐れたり嘆いたりするとしたら、ずいぶん不合理ではないか。(中略)ところが、真に知恵を愛し、ハデスにおいて、しかも、そこにおいてのみ、それに正々堂々と会えるという、同じ希望をもっている人が、死にのぞんで嘆き、あの世へ行くのを喜ばないなんてありうることだろうか。喜ぶにきまっているではないか、ねえ君、もし彼が真に哲学者であるならば。なぜなら、あの世以外のところではけっして純粋な知恵に到達しえぬことを、彼は確信しているのだから。

プラトン『パイドン』(世界の名著6『プラトンⅠ』, 田中美知太郎編, 中央公論者, 1966, p.508)

『パイドン』(パイドーン、古代ギリシャ語: Phaídōn、英: Phaedo)は、プラトンの中期対話篇。副題は「魂(の不死)について」。『ファイドン』とも。ソクラテスの死刑当日を舞台とした作品であり、イデア論が初めて(理論として明確な形で)登場する重要な哲学書である。師ソクラテス死刑の日に獄中で弟子達が集まり、死について議論を行う舞台設定で、ソクラテスが死をどのように考えていたか、そして魂の不滅について話し合っている。

ソクラテスは「人間にとって死ぬことは生きることよりも例外なく無条件に善いことだが、それを自ら成す(自殺する)のは不敬虔であり、他者がそれを成してくれるのを待たねばならない」と言う。そして「本当に哲学を行っている者は、ただひたすらに死ぬこと、死んだ状態にあること以外の何ごとも実践しないし、全人生をかけて死以外の何ごとも望んで来なかったのだから、死を前に憤慨するのはおかしい」と言う。

次にソクラテスは「知恵の探求・獲得において、頼りになるのは思考のみであり、肉体の諸感覚は役に立たないどころか邪魔になるので、哲学者の魂は肉体を最高度に侮蔑し、そこから逃亡し、自分自身だけになろうと努力する」「正義・美・善や物事の本質(真実在)は、不純で邪魔な肉体的感覚を排除して、純粋な思惟のみで追求されるべきものである」と指摘する。真実在とは、イデアのことである。

ソクラテスは以上のことから、真の哲学者は「生きている間は知恵を獲得できないし、生きている間はできるだけ肉体と交わらずその本性に汚染されずに、清浄な状態のまま神が我々を解放する時を待つ」という。「純粋な知恵」に到達することができるのはあの世であり、だからこそ死を喜ばない哲学者はいないと述べる。その後、ソクラテスは「魂の不死」について話す。

そして問答を終えたソクラテスは、クリトンに毒薬(毒ニンジン)を持ってこさせるよう告げる。そして、ソクラテスは上機嫌にそれを受け取り、神々に祈りを捧げてから、平然とそれを飲み干すのだった。

ちなみに著者プラトンはこの場にいたのか、いなかったのか。本の冒頭でパイドンに「プラトンは病気だったように思います」と語らせ不在だったように書いている。しかし、おそらくプラトンはソクラテスを目の前で看取ったのではないか。プラトンが膨大な著作群を書いたのは、「ソクラテスはなぜあのように平然と死を受け入れ、死んでいったのか」、「ソクラテスが言った『哲学者とは死を心がけている者である』ということの意味は何だったのか」を生涯を通じて追及することだったのだろう。



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