ルッキズムの悪魔


ルッキズム―外見的な美醜を重視して人を評価する考え方。容姿による差別をいう。(goo国語辞典)


残念ながらこの世には容姿の優劣が存在する。


「1000年に一人の美少女」ともてはやされる人がいる一方で、「ブス」といじめられる人もいる。


そして、多額のお金を払って美容整形しないことには、これまた残念ながら外見を変えることは出来ない。


美醜。それは想像以上に、いや、想像通りに、人々の心理に働きかける。


かわいいというだけで肯定してもらえる、多少のミスを許される、できることの幅が広がる。
顔が良くなきゃできない仕事はあるけれど、顔が悪くなきゃできない仕事はない。


『ブスいじり』はこの日本のどこにでもあるものだろう。
無論、対象の性別や年齢に関係なく、だ。


「本当にブスだと思ってたらこんないじりできないよ~」
という悪魔の免罪符とともに、心に突き刺さる「ブスww」「まあ、美人ではないよねww」の言葉。


私の場合、ティーンになる前は、そこまで自身の見た目を気にしていなかった。
けれど、中学校で初めて「ブス」といじられ、それからの人生でも幾度となくその言葉を受け取ったり、言葉にはなっていなくても「美人ではない側の人」の対応をされたりするうちに、いつの間にか自分の美醜に囚われていた。


「自分の見た目は美しくないんだ」
「かわいくないとダメだ」
「かわいくならなきゃ」
「こんなかわいくない自分、誰も受け入れてくれない」
「あんなやつの評価なんて気にしちゃダメなんだ」
「でも客観的に見てかわいくないってことだよな…」
「あんなやつルッキズムだ れっきとした差別だ 気にするな」


こんな風に悶々とする自分の思考が一番、ルッキズムに侵されているとわかっていたからつらかった。
本当は、見た目なんかで人の評価は決まらないはずなのに。
見た目は、人間のうちにある幾千もの要素のうちの、ほんの一つでしかないのに、なぜそんなに美醜にこだわるの。

そんな声が心の奥から聞こえても、私はそれをやめることができなかった。自分の美醜のことで頭がいっぱいだった。

誰かが決めた美しいの基準に合わせる必要なんてないのに。
どうしたって「かわいくなりたい」という願いが頭にこびりついて離れない。


ルッキズムの害、それは「自分ではどうしようもないこと」を指摘されるところにあると思う。

自分の失敗や行動を否定されるのであれば、今後改善の余地があるし、それは自分自身を否定されたわけではない。あくまで、自分が犯した「失敗」「行動」を否定されたのだ。

しかし、こと美醜となると話が違う。
自ら進んで見た目を醜くしているのでなければ、見た目は「あなた自身」だ。
それを否定されることは、自分という人間を否定されたのとまったく同じことのように思えることだろう。

「ブスww」を覆す強い心を持てる人はあまりいない。


自分で自分を美しいと定義できる人はなかなかいないから、
無責任な「ブス」の言葉が、ブスと言った奴の美醜の基準が、そのまま自分の美醜の判断基準となり、その無責任な軸において自分が「醜い」ことに苦しみもがきながら生きていくことになるのだ。


それがどんなに苦しくて、悲しいことか。


本当は愛して然るべき自分のルックスを、たった一人の無責任な言葉で呪い続けなくてはいけなくなるのだ。


鏡を見るたびに悲しい気持ちになって、どんなにかわいい化粧をしてもその出来栄えに絶望して、道行く人の視線からすべてを悟って、周りの恵まれた人との人生の差に僻みを覚える。


ルッキズムとの戦いは、よぼよぼになって美醜の区別なんてなくなる歳にならないと、終わることはないだろう。


周りの愛しい人たちが、かわいい妹たちが、こんなくだらないことで悩まなくて済むように、私は彼ら彼女らに、「今日もいけてるね」「かわいいよ」と伝え続けよう。


誰かが決めた「美形」の基準に合わせる必要なんてない。

そんなこと、頭でわかっていたって、何を言われても「わたしは美しい」と胸張って言えるほど私たちは図太くない。
それくらい、美醜は人の心を支配するものだ。


だったら、どうせ誰かが決めた美醜の基準に支配されてしまうなら、心無い誰かの基準に侵される前に、自分を肯定できる基準をつくればいいだけ


私の基準では、みんな、一人残らず、今日もサイコーにかわいいしかっこいい。見た目をめちゃくちゃ誇ってほしい。

私の基準が世界の基準だと信じて、今日も自信持って生きててね。


おしまい


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