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小説「あの時を今」02



教室の机で現状を整理していると、誰かが近づいてきた。
「お前なんで朝練来なかったんだよ。」
同じ部活の友人、アキラだ。私は高校時代、ハンドボール部に所属していて、その中でも親しくしていたのがアキラだった。アキラとは社会人になってからもよく会っていた。
「すまん、忘れ物取りに帰ってたら時間なくてな。」
「大会近いんだから、気を付けろよ。先輩は適当にごまかしといたから。」
今が4月ということは、インターハイ予選はもうすぐだ。あの厳しい練習を思い出すと、部活に行くのも少し気が引ける。高校のハンドボール部は、県内でもそこそこの強豪で私が2年生のときは県ベスト8、3年生のときは県大会準優勝だった。私自身は補欠で、たまに試合に出ることはあったが、ベンチを温めていることが多かった。それでもハンドボールが好きで、社会人になってからもアキラや他の仲間たちと続けていた。



予鈴の音に懐かしさを感じていると、授業が始まった。1限目は数学だ。学問から遠ざかり早数年、全く覚えていなかった。そういえば、仮想空間に必要なデータが私の記憶にない場合、治療に使われている装置がその内容を補完してくれると、医者が言っていた。つまり、私の記憶に無いことも、この治療中の世界には現れるということだ。現実での、私の成績はそこそこ。少なくともテストで平均点を取らないと、治療中の未来に影響が出てしまう。妻と息子のためにも、なるべく本来の記憶を辿らなければいけない。勉強しなければ。



その後の授業も真面目に受けたが、全く覚えていなかった。特に理系の教科はまずい。これは、家に帰ってからも勉強が必要だ。しかし、この後は部活がある。家に帰ってから勉強する体力が残っているかどうか。だが、弱音は吐けない。今私は治療中なのだ。今頑張らなくてどうする。そう思ったとき、少し虚しくなった。あの時、頑張れなかったことを今になって頑張ることになるとは。勉強も部活も、中途半端な人生だった。そんな人生でも、同じように辿るには努力しなければいけない。特に頑張ってもいなかった過去の自分に、努力して近づこうとしている自分が情けなくなりながらも、私は急いで部室に向かった。



部室に入ると既に後輩が準備しており、軽い挨拶を交わした。部室の思い出に浸るのは後にして、すぐに着替え、シューズとテーピングを片手に体育館へと向かった。シューズの紐を固く締め、テーピングを指に巻いているとアキラが話しかけてきた。
「なんか楽しそうな顔してんな。」
正直、久しぶりに本気でハンドボールが出来ることが嬉しかったのだ。
「朝練サボっちまったから、取り返さないとな。」
部長の号令で練習が始まった。私にとっては久しぶりの練習で体力面が心配だったが、身体は高校2年生の時の状態が再現されているからか、それほど問題は無かった。トラックに轢かれて以来、身体を動かせていなかったので、かつての仲間とやるハンドボールがより楽しく、年甲斐もなく熱くなっていた。
「今日は調子良さそうだな、いつもより球に勢いがあるぞ。」
キーパーの先輩に褒められたのだが、そこでふと気づく。高2の春よりもハンドボールがうまくなっていたのだ。高校卒業までの経験はもちろん、社会人になってからの経験も身についており、当時よりもかなりうまくなってしまっていた。アキラからも、

「まるで別人だな。なんかあったか。」
と言われてしまった。これは、まずい。身体の使い方や積極性など客観的に見ても、今の実力なら試合に出てもおかしくない。本来であれば、高2のインターハイを全試合ベンチで過ごした俺が、何かの拍子に試合に出れば、治療中の未来が変わってしまうかもしれない。そう思ったら、急に熱が冷めてしまった。その後も練習を続けたが身が入らなかった。
「今日のお前、なんかおかしいぞ。」
「わりぃ、大丈夫だから。」
アキラに本当のことを話せば、それこそ治療中の未来が変わってしまう。なかなか厳しい治療だ。部活を本気でやっていればと後悔したことは、過去に何度かあった。その後悔を仮想空間で晴らしたところで、目覚めたときには虚しいだけ。そんなことはわかっている。それでも諦めきれないあの時の選択。行き場の無い気持ちを抱えて、私は帰路についた。

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