見出し画像

一人称「俺」が恥ずかしくなってきた問題

先日、LINEで会話をしていた時のことである。急に「俺」という一人称を使うことが恥ずかしくなってしまい、「俺の○○が~」と返信しようと思っていたところ、どの一人称を使っていいかわからず、結局「○○が~」と返信し、一人称を捨ててしまった。

noteなどの文章を書くときの一人称は「私」に決めているので迷うことはないのだが、妻や友人との会話になると、今まで当たり前のように使っていた「俺」という一人称を使うことに躊躇いが出てきている。

私は今年で27歳。人間としての魅力が若さや明るさから、色気や落ち着きという方向にシフトする年齢である。故に、若さの象徴「俺」という一人称を捨てるフェーズに入ったのだと思う。これは私の、ダンディズムへの目覚めである。

「俺」という一人称を、年齢を重ねても違和感無く使い続けることの出来る人は、生き方そのものが若々しい。私の場合、普段からよく遊ぶわけでもなく、アウトドアな趣味もなく、家の中にいる時間が長い、お家が大好きな人間である。決して、生き方が若々しいとは言えない。結婚をしてからは、尚更である。そんな折、ライフスタイルと年齢のギャップが小さくなってきたことで、「俺」という一人称を使うことが恥ずかしくなってきたのだと思う。そして気付いたのである、それがダンディズムへの目覚めであると。

ダンディズムへの目覚めとは何か、簡単に説明しよう。27歳、所謂アラサーと言われるタイミングで、自分の実年齢と向き合わなければいけないフェーズに入った際、実年齢を受け止め、自分の老いを楽しむという考え方にシフトすること。それがダンディズムへの目覚めである。誰もがこのタイミングでダンディズムに目覚めるわけではない。自分の実年齢と向き合った際、ライフスタイルの舵を若さに切ることで、若々しさを保つことが出来る人間は、ダンディズムへ目覚めるタイミングを遅らせることが出来る。ダンディズムへの目覚めは、人それぞれ適したタイミングがあるのだ。

この、一度は実年齢と向き合わなければいけない27歳というタイミングで、実年齢と向き合わずに、ライフスタイルの舵を若さに切るわけでもなく、老いを楽しもうとするわけでもない人間は、老いと共に自分の魅力を失うことになる。

私はダンディズムに目覚め、老いを楽しむことに決めたので、今までとは異なるファッションを楽しんでみたり、優雅な休日を過ごしてみたりと、今後の楽しみが増えている。ただ、今までの楽しみを捨てるわけではない。私はいろいろな価値観に寛容で、あらゆる魅力を吸収し、自らの魅力に変換することが出来る、スポンジダンディを目指す。

そこで、一人称「俺」が恥ずかしくなってきた問題に戻る。ダンディズムに目覚めたはいいが、ダンディになったわけではないので、いきなり普段使いの一人称を「俺」から「私」に変えることは難しい。私は「俺」という一人称を失ったことで、現在は一人称無しの生活を送っている。今は「自分」という、一人称の代わりとなる言葉で何とかやりくりしているが、普段の会話で一人称が欲しくなる時は度々発生する。私はどうすれば良いのだろうか。

「私」という一人称を男性が普段使いしても違和感の無い年齢は38歳である。ビジネスシーンでは、それ以下の年齢でも「私」という一人称に違和感はないが、妻や友人との会話での違和感は拭えない。27歳から38歳までの約10年間、私は一人称無しで暮らしていかなければいけないのだろうか。

「俺」という一人称とは、かれこれ20年以上の付き合いになる。言い慣れた「俺」を簡単に手放すことは出来ない。今でも、恥ずかしいながら使い続けてはいる。無意識に出る一人称は、やはり「俺」で、使った後に恥ずかしくなることもある。そう、俺が俺ではなくなってきているのだ。この転換期が10年続くと思うと気が遠くなる。

正直、一人称「俺」が恥ずかしくなってきた問題に対する解決策は、未だに見つかっていない。「俺」を使うことへの気恥ずかしさと、「私」を使うにはまだ早いという事実を受け止め、暮らしていくしかないのだ。俺がまだ俺であることを認めつつ、一人称を使わなくていい言い回しを探していく10年間の旅が始まる。自分の未熟さを知ることもまた、ダンディズムなのだと信じて。

この記事が参加している募集

#この経験に学べ

55,030件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?