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小説「あの時を今」03



家に帰ると、母親が夕飯を準備してくれていた。母の手料理を食べるのはいつぶりだろうか。久々に食べる母の味は優しかった。
「これ美味いね。」
「あんたが褒めてくれるなんてめずらしいわね。」
高校生の私は、母の料理を褒めないような男だったのか、情けないな。夕飯を食べ終え、食器を片付けてから2階の部屋に向かった。私の部屋は見慣れたもので、あまり懐かしさも感じなかった。治療の初日で身体も心も疲れているし、すぐに風呂に入って寝ようかとも思ったが、妻と息子の顔を思い出すとそういうわけにもいかない。授業に追いつけるように、勉強しなければ。私は机に向かい教科書を開いた。



勉強を続けて1時間ほど経った頃、スマホが鳴った。確認すると、当時の彼女カオリからの連絡だった。
[お疲れさま。今週の日曜日買い物行こうか。]
[午後からなら大丈夫。]
カオリとデートの約束をしてしまった。妻に申し訳ない気持ちはあったが、カオリとの関係が崩れれば妻と結婚するはずの未来も変わってしまうかもしれない。人間関係は小さな綻びから大きく変化してしまうことを、私はこの27年間を通して学んでいる。もしもカオリとの関係が悪くなり、変な噂が校内に広まれば同じ高校にいる妻にも伝わってしまうかもしれない。妻と付き合い始めるのは社会人になってからだが、高校時代の悪評が未来の関係に影響するかもしれないと思うと下手なことは出来ないのだ。カオリとはカオリの進学を理由に高校3年の冬に別れた。それまでは、関係を続けることになる。妻にもカオリにも後ろめたさを感じながら、時空を超えた二股をしなければならない。なんという治療だろうか、心労で寿命が縮みそうだ。今日はもう風呂に入って寝るとしよう。



翌日からは、勉強と部活中心の生活。本来の過去から逸脱しない様、当時を思い出しながら行動してはいるものの、多少のずれはあった。勉強も一日二日で追いつけるはずもなく、小テストの結果は惨憺なものだった。当時よりも努力しているはずだが、当時の私に追いつけない、継続は力なりとはよく言ったものだ。中間テストまでにはなんとかしなければ。そんな努力の求められる勉強とは対照的に、うまいこと当時の実力に寄せなければいけない部活の方が私にはつらかった。もし本気でハンドボールをすれば、先輩が引退する頃にはレギュラーメンバーに入るだろう。しかし、本来私は控え選手だ。あまり目立つわけにはいかない。



それともう一つ、私を悩ませるものがあった。それは、同級生との会話だ。男子高校生の会話のなんとくだらないことか。勢いだけで、全く中身が無い。昨日のテレビがどうだったとか、誰と誰が付き合ったとか、そんな話が永遠続く。それでも、同級生たちは楽しそうに笑っている。当時、これで私も笑っていたのだ。年は取りたくないものだな。楽しんでいる人間に理屈を求めるようになっている自分が嫌になった。そんな同級生との会話の中、トモノリが不思議そうな顔で私に話しかけてきた。
「それにしても、カオリさんがお前に告白するなんて意外だったなぁ。なんでお前なのかね。」
「それは俺にもわからねぇよ。」
「今度聞いてみろよ、俺のどこが好きなのって。」
「恥ずかしくて聞けるか。」
たしかに、カオリが私に告白してきたのは自分でも意外だった。高校1年の冬、いきなり呼び出され、
「私と付き合おうよ。」
そう言われ、当時の私は頷くことしかできなかった。それまでは、時々話す程度でそこまで深い仲では無かったし、私が学校で目立つ存在だったわけではない。カオリは成績優秀で、周りからの評価も高く、自分で言うのもなんだが、中途半端な私なんかには手に余る女性だった。そんなカオリとのデートが目前まで迫っている。



土曜日も部活、明日も部活で午後からはカオリとデート。週休2日に慣れてしまっていた私には正直つらい。下手なふりしてやるハンドボールは楽しくないし、本気でやるよりむしろ疲れる。アキラは私の違和感に気が付いているみたいで、気にかけてくれている。その優しさに応えられず申し訳ない。アキラは2年生ながらレギュラーで才能のある人間だ。アキラの邪魔はしたくない。今日も目立たぬようにハンドボールをやるしかないのだ。練習の終わりに、来週の土曜日に練習試合を行う旨、顧問から連絡があった。相手の実力は私たちと同等かそれ以上だ。練習試合には、私も出ることになるだろう。どうしたものか、練習ならまだしも勝負事となると手を抜くのは難しい。大会前最後の練習試合でチームの士気に関わる。当時は、この練習試合に勝ったことで勢いが付いたようなところもあった。試合では下手なふりは出来ない。それこそアキラに気付かれてしまう。



練習を終え、いよいよカオリとのデートだ。待ち合わせまでの時間が迫る中、着ていく服が決まらない。当時の私服はお世辞にもセンスが良いとは言えない。文字のガチャガチャ書いたTシャツ、落ち着きのない柄物の短パン、少年の様なキャップ、どれもデートに着ていけない。当時の私のセンスに落胆しながらも、クローゼットを探して見つけた無地の白シャツとジーンズを身に着ける。既に待ち合わせ時間ギリギリで待たせてしまっているかもしれない。これはまずい。急いで待ち合わせ場所へと向かった。

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