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日本画勉強の記録七:古今和歌集


去年訪れた吉野山です
平安時代は吉野山は冬のイメージが主流で
桜のイメージが作られたのは西行法師からと言われているそうです

古今和歌集の勉強会に参加したので、
自身の勉強のためにまとめます。

古今和歌集の勉強会に参加したきっかけは、
かな書道で使用しているお手本が寸松庵で、
寸松庵は古今和歌集の歌だから詳細を知りたく学びに行きました。
勉強会は石田穣二、吉田幸一らに師事された河地修先生に教わりました。

古今和歌集について(歴史ふくめ)一から学ぶべく
子供でもわかるようふりがなをつけて書いております。

【基本的なこと】
平城(へいぜい)天皇が万葉集を編集させた100年後、
905年に醍醐(だいご)天皇の勅命によって古今和歌集が編纂(へんさん)された。
日本最古の勅撰和歌集。
(重詔…重ねてみことのりがあった)

万葉集(奈良)、古今和歌集(平安)、新古今和歌集(鎌倉)の大きな流れがある中で
古今和歌集は、真名序に「続萬葉集」であると記載があります。

書き写した本が基本だった頃、
源氏物語は文字数が多くて誤字や齟齬が多いのに対し、
和歌は5,7,5と文字数が少なく楽だったので
藤原定家以来、永延と続いてくることができたのだそうです。

全20巻あり約1000首あります。
撰者は4人。
紀友則(きのとものり)
紀貫之(きのつらゆき)
凡河内躬恒(おおしこうしのみつね)
壬生忠岑(みぶのただみね)
歌人は撰者の4人が全体の2割で、
作者不明の読人知らずは全体の4割います。
古今和歌集に醍醐天皇の歌はありません。

詠み人しらずとは、中の位が主に読んだとされています。
王朝貴族の身分階級は上(かみ)、中(なか)、下(しも)に分かれており、
中にあたる受領層(ずりょうそう)という名もなき貴族たちのことをさします。
歌を歌って食べ物をいただいていました。
税を国に送る仕事など大事な仕事を担っており県知事のように地方に4年行く仕事があったため
本当に離別となったそうです。
そのため詠み人しらずの歌には離別の歌があります。

万葉集は漢文で書かれており今でいう英語のような感じで、
知識人にしか読めませんでした。
それに対し古今和歌集はかな文字混じりです。

真名序(まなじょ)と仮名序(かなじょ)は
古今和歌集にある序文のことです。
真名序は漢文、仮名序はかなで書かれていました。

【時代背景】
奈良時代の都は奈良(平城京)、
平安時代の都は京都(平安京)、
鎌倉時代の首都は鎌倉、都は京都(平安京)で、
平安時代以降、都は明治まで京都です。

奈良時代は中央集権国家で天皇の力が強くなった時代でしたが、
平安時代中世、末期になると天皇家や朝廷の権益は縮小の一途を辿りました。
天皇に権威があるときは、継承者争いが激しくなりました。

古今和歌集は、こういった時代背景があって成り立っているので
天皇家略系図の参照は必須です。
桓武天皇から始まり、紀氏、在原氏、藤原北家の藤原道長までの相関系図を参考にしました。

【構成】
古今和歌集の歌はすべて、
一首一首が別の歌ですが、前後の歌がを何らかの形で繋がっています。

例えば「白雪」とあれば次の歌で「雪」と繋がっています。
「雪は降りつつ」と同じ言葉が次の次の歌で繋がってでてきます。

なぜ繋がっているのかというのは、
災害や死別、飢饉や餓死、突然日常が断ち切られることがある中で
春夏秋冬、四季の繰り返しがあること、農業を支える四季の安定は、
我々日常の祈りとして撰者は示そうとしてたのではと考えられています。

【内容】
古今和歌集のはじめの歌は
在原元方から始まり、紀貫之、詠み人しらずと続きます。
在原元方は在原業平(伊勢物語の主人公)の孫です。

古今和歌集の中で
「桜」は咲いている桜も詠まれていますが、
「散る」言葉とかけあわせて多く詠まれていることがわかります。

52と53の歌は紀貫之の明と暗のコントラストがよく出ていると言われています。

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52
年月を重ねるままにこの身は老いてしまった。
とは言うものの、この桜の花を見ていると、いっさいの苦労を忘れてしまう。

53
世の中に、桜というものが全くなかったなら、
春はどんなにかのどかな気分でいられれるだろうに。

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目の前に皇太子のチャンスがあり、
勝ったも同然だったのにがっくりした、
世の中は憂きものだという認識で歌われました。

古今和歌集の歌人に
光考天皇、平城天皇、二条の妃などが天皇家の暗のサイド、負の世界にいたことは、
偶然ではありませんでした。

明と暗、
光と陰、
幸と不幸、

満開の桜は素晴らしいものの一つの象徴として謳われますが、
光には暗があるという哲学がそこにあるのかもしれません。
わびしい、寂しい中に価値を見出す、日本の美意識がここからよみとれます。

勉強会で勉強できたのはここまででした。
また勉強する機会がありましたら参加したいです。

最後に、参考にした書籍の解説に記載されていた要点を私なりにまとめました。

・古今集における「心」は決して激情ではない。常に安定した心情である。
・貫之にとって価値があったのは、人間と自然の、あるべきありようだけである。
・冗語を排し、誤解を許さない、それが古今集詩書の文体である。
・教科書に万葉集はますらおぶり、古今和歌集はたおやめぶりと記載するのもあるが、
実際はその逆である。
・中国古典が下敷きになっていることは事実、しかし仮名序となれば一筋縄ではいかない。
神話的な古い日本の、日本人が元来持っていた人間主義というのが感じられる。

下記、解説の中で私が感銘を受けた文章を一部抜粋します。
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仮名序で、あえて「やまと歌」と言い、また、「そもそも歌のさま、六つなり。漢詩にも、かくぞあるべき」などと言う彼のものの言い方に、漢詩に対する和歌の自覚とか、大陸文化に対する国風文化の自信とかを読みとるのは、浅はかな読みというものだ。これらは貫之が、一種のナショナリズムを宣言したものだというふうに考えての発言であるらしいが、これはあたるまい。さような対抗意識を、和歌は天地初発とともにあり、歴史を通じて限りなく尊重されてきた、それと同時に、先王の道-普遍的原理にかなうものだ、と力説する貫之が、持つわけがないからである。先王の道とは、海を隔てた一国における規範であるはずがない、普遍的な、全人間世界で踏み行われるべき規範だというところで、貫之の目は光っていたのだ。中国文化において果たす詩の重要な役割を、当然和歌にもわが国において果たさねばならないとの主張なのだ。

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余談ですが
国の特別名勝に指定されている六義園には
万葉集、古今和歌集、中国の古典にちなんだ名所が八十八ヶ所あります。
古今和歌集の情景が楽しめる貴重な場所です。
六義園の造園をした柳沢吉保は、当時幕府に仕えていた歌人の北村李吟から古今和歌集を教りました。北村季吟は松尾芭蕉の師として有名です。

参考書籍は 新潮社、校注 奥村恒哉の古今和歌集です
奥村恒哉は他に「八代集」などの書籍を出しておられます
「八代集」は江戸時代の北村季吟(きたむらきぎん)が残した
八代集抄(はちだいしゅうしょう)という註釈書のことです


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