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「SONOを生きる」ということ

こんにちは。SONOです。
SONOを生きることになり、所謂ところの「知命」ってやつですね。50歳を目前にして「天命を知る」の境地に至ってきたような、そんな気持ちでいる、ここひと月です(大層ですがほんとです)

「名は体を表す」って言葉があるけど、あたしは自分のなまえが大好きです。いや、厳密に言えば、大好きになりました。フルネームは3文字しかないのにも関わらず、割と難し目の漢字なんです。小学生の頃、書道では必ず左側のなまえのところが真っ黒のぼかしみたくなっていた、アレです。無駄に画数が多くてテストの記名は必ずフライングしていた程のやつです。

と、ここまで書いて、SONOじゃあ分からん、ってことに気づきました。。SONO=園、なんです。特になまえの全貌を知ってる方はまあそうだよね〜と思っていただけるかなと思うのですが、実は苗字も読み方が少し特殊なので間違えて呼ばれることは日常茶飯事のこと。(知らない方のが圧倒的に多いので、この話はこのへんで)

そうそう、「名は体を表す」ってお話で、このSONO=園、というなまえがここ最近、とくに好きなんです。園からイメージされる風景って、花園とか庭とか公園とか、ひとが癒されるような場所って感じじゃない?

小さい頃は親の不貞に対しての反発で家中の物をぶっ倒しては投げ散らかし、青年期はパンクとハードロックの波の渦に飲み込まれるのが心地よくて、なんにも考えずこれでもかと頭を振っていたし、結婚して子どもを産んでからもお子を連れて居酒屋に入り浸って家に帰らず、終電なくして友人にお子を抱っこしてもらいタクシーに乗せられるなんてこともしょっちゅうだったし(つい最近も3,000円握らせてもらいタクシーに放り込まれたけれど)。親との縁が薄くて(ここは占い的な人には必ず言われる)家族の良さを未だ分かっていないあたしにとっては、周りにいてくれる他人、特に親しい人たちがめちゃくちゃ素敵で、みんなやさしくて、限りなく財産なんだよね。これだけは本当に恵まれてるなあと思う。

でね、これって最近ね、なまえのおかげでもあるんじゃないかなと思うの。みんな、好きでしょ?庭とか公園とか緑のあるとこ。あたし、あれなんじゃないって思う 笑。家族が公園に行く理由は子どもを遊ばすためなんだけど、大人が公園に行く理由って癒しとかリラックスなんだよね。そこへ行けば、なんかホッとする、なんか癒される。なんかそこにいたい。ざっくりだけれど、そういう人であるためにSONOってなまえになったのかなと思ったりして。ちなみにSONOじゃないもうひとつの名前の候補はね、「照」だったらしい。GLAYとかぶってたやん。。

話を戻すと、40歳で不惑、50歳で知命。「命の使い方を知る」ってこと。先日7、年ぶりにお会いした三条京阪の帝王(呼び方w)が、女性は50歳でようやく母親離れをして自立するんだよと教えてくれたんだけどね。確かに、生きる意味とか、命の使い方を知る歳だとするなら合点がいくなあと思ったわけ。

それで、ここへきて、自分のなまえにね、命の使い方のヒントがあるんじゃないかなと。誰かのために生きたり、誰かのために頑張ったり、誰かのために何かをしようとするんじゃなくて、自分がこうしたいって気持ちに正直に、自らの意思で、直感で、自分が自分として生きることが、まわり巡って誰かの生きる力になるんじゃないかなと。親のつけた名前だとしても、おそらくその名を持って生まれてると思う。だから、あたしはこの先もSONOとして生きていたいし、このまんまのあたしを誰よりも自ら肯定して褒めて良い気分にしてあげたいんだよね。人生のセルフプロデュースって感じ。

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