「今が一番若いんだから」と言われても... 3/4
「若さ」とはなんだろう。若さとは未熟さと可能性と捉えられている。これからなんでも出来て、何にでもなれるような可能性。だから「今が一番若いんだから」という言葉の後にはポジティブな言葉が付随し、そこには指導的意味合いが込められている。無限の可能性…果たしてそうだろうか。生まれた時点である程度の可能性は決められてしまっている。人は生まれながらに不平等であるから平等に近づける努力が必要とされるし、平等などないから平等を目指していかなければならない。生まれた瞬間から引かれたスタートラインはそれぞれだ。運と縁と才能などがすべてピッタリ重なった奇跡の特異点的な例を、こういう人もいるじゃないかと引き合いに出すことは何の意味もなさない。
私は、10代20代と若い時こそ消えてしまいたいと思っていた。自分のセクシュアリティを受け入れられないという葛藤や、長男としての期待値を持たれていた後継問題など、それらはきっと若いという感受性の中でこそ、思い悩まされていた事あり、課せられていたものであったと思う。その全ては若い私のコントロール化にはなかった。
この悩みをadolescence(青春期の心理的な変化)としてカテゴライズするのはあまりにも切ない。その消えてしまいたいという思いは、個人の心理の変化が主軸というよりも、自分を取り巻く環境が主軸で、それを認知するようになることで生じる悩みだった。血縁、家族、所得、学校、友達など、環境を認知することにより、心が反応していく。青春期の心理的な変化ではなく、青春期の環境によって認知させられるものだった。そして一度知ってしまった後は、その問題が解決するか、または「もうどうにでもなれ!」と思えるまでは、ずっと思い悩んでいく。今までは認識できていなかった、生まれた時点で自身に課せられたものを知り、生まれた時点で自身に持たされていないものを知る。自主的でない責任と、他者からの期待を知る。そして一度知ってしまった後は、それらが解決するか、または「もうどうにでもなれ!」と思えるまでは、ずっとずっと思い悩んでいく。
10代20代の若いとされる時にこそ、消えてしまいたいと思っていた人は少なくないはずだ。
ある程度の年齢になれば「今が一番若いんだから」と言われるようになると思っていたが、その年齢に達するまでも「まだ若いんだから」と言われ続けていたことを思い出した。そしてそれはポジティブな激励として使われるよりも、もっと乱暴な意味合いを持つ言葉だった。「若いんだから悩まないで」「若いんだから大丈夫」というなんの根拠もない理論でぼんやり片付けられていく。これも慣用句のように使われるなんとなく物事を解決している風にしてしまう言葉の典型だろう。若さが無限の可能性であり、若さとは未熟さであるという決めつけにより、そこには口を塞がれた若者が取り残される。
私も10代20代の頃の自分を振り返ると、もっともっと色んなことが出来たはずなのにと、やらなかったあれこれを思ってしまう。しかし、あの時はあの時で毎日を過ごすのに精一杯だったことを思い出す。今の年齢の私を、10年後20年後の私が振り返り、勝手にあれができたとかこれが出来たとか言われても、忘れているこんな事情や理由があっただろうと突きつけ、今この生活を維持するために精一杯だと、はねかえすだろう。
若さが可能性であるとするならば、若さとは希望の可能性であり、痛みの可能性である。若いんだからなんでも挑戦できるという可能性。そして若いからこそ、これからも傷つき悩んでいくのだろうという可能性。誰しも今という時間軸で生きているのに「若いんだから」という老若の概念が押し付けられていく。若さゆえに口を塞がれ、ひとりぼっちになり、その孤独すら「思春期」や甘えと呼ばれてしまう。生まれた時点での不平等も「若さ」という可能性の上に、まるで未熟で努力不足であるかのように若さの呪縛に囚われている。
「今が一番若いんだから」の残酷性 3/4
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