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「今が一番若いんだから」と言われても... 2/4

「今が一番若いんだから」の後にはポジティブな言葉が付随するようになっている。つまり励ましに使われる。しかし、疲弊している時に若さという言葉を用いて励まされることは更なる疲労を人に与えることにならないだろうか。

もうなんだか色々疲れてしまった時に「まだ若いんだからそんなこと言わないで頑張ろう」なんて言われてしまっては、どっと疲れてしまう。励ましよりも労いが必要な時に、相手から励ましを手渡され、その苦労や疲労を老若で片付けられてしまう。その強引性にどっと気持ちが重くなる。もちろん欲しい時に欲しい言葉がもらえるとは思ってはいない。今はそういったシチュエーションの中での心の動きについて書いている。慣用句の様に使われる言葉というのは強引性も孕んでいて、その言葉さえ使ってしまえばその場にある真実とそれに対する議論はどこかに置いといて、なんとなく丸くおさまった感じで片付けられてしまう。人間関係について相談しているときに「世の中色んな人がいるからね」とか、今まさに苦しんでいるときに「時間が全てを解決してくれる」とか、そんな言葉たちがそうだ。そういうことではないのに、なんとなく良いことを言っている風の現代の慣用句たちが、笑顔でこちらの口をふさいでくるのだ。「今が一番若いんだから」という言葉にもそ性質が十分にある。

励ましたい時に励ましてもらえるわけではない。労いが欲しい時に労いがもらえるわけではない。そんなことは分かっているが、それではあんまりだと思う。四捨五入ができるからといって、なんでも強引に切り捨てていく風潮にはわかりやすさこそあるが、そこにあるはずの可視化・言語化できていないもの、つまりわかりにくいものを無いものとしてしまう強引さがある。解にならない所にも、可視化できないうまく言葉にできないものは確かに存在するのに。慣用句を用いて物事をなんとなくおさめた先にある解は、果たして結果や答えと呼べるものなのだろうか。「いや、"わかりにくさ"を無視せず出した解があったとしても、その曖昧なものを用いた以上、そこから導いた答えは、答えと呼ぶには程遠いでしょう。」というような思考が浮かんでくる。これも論点をずらす危うい考え方だ。四捨五入的思想と、"わかりにくさ"を切り捨てない思考、"どちらも完璧な答えに到達できない"という所で一致したから、イコールのように思わされてしまう。しかし、わかりやすい四捨五入的思想が出した結果と、可視化・言語化できていないものであるわかりにくさを加味して出した結果とでは、その質は全く異なるだろう。そこに慮るという行動が加えられる以上。

励ましたい時に励ましてもらえるわけではない。労いが欲しい時に労いがもらえるわけではない。そうであるならば、私は前に進めずにいる人がいるときは励ましを、疲れ果てた人がいるときは労いを渡したいと思う。そこには私という主観を用いた慮るという、目には見えず触れることができない特別なルールが課され、例外的な対応が都度加えられていく。そこには正解こそないが、強引な決めつけも同時に存在しない。


「今が一番若いんだから」の残酷性 2/3

おねがい

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