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別れた後

パートナーぐるみで友だち付合いをしていて、彼の方が計画を立てるのも得意でお酒の場も好きだった。別れた後に約束した海水浴にも誘われず、SNSにあげられる楽しそうな元パートナーや友だちの写真に深く傷ついた。自分もそこにいたはずなのに、自分だけがいない写真を見つめる。そんな投稿はその後も何度も続いた。SNSの投稿自体は自由にしていいものだから、それを恨んだりはしていないけれど、だからと言って納得することもできずいた。行き場のない気持ちは結局胸に抱えておくしかなかった。その胸のしこりが違和感となって、ようやく元パートナーや友だちから誘いが来た時に、恐怖や怒りのような感情を見つけ、断った自分がいた。

同棲解消後に住む場所も変わり、そういう意味では環境の変化もあった。トラウマのようなものから昔の友だちにも会うことが出来ず、何となく新しい友だちが欲しいと思うようになった。新しい友だちを作るのなら、一番ひとと出会いやすいであろう新宿二丁目に行けばいいのかなと思った。しかし出かければ疎遠になってしまったパートナーや友だちの誰かと会ってしまうかもしれない……新宿二丁目からも足がどんどん遠のいていった。ホームと言えるような2丁目のバーにまで、誰かに会ったらどうしようと思うと行けなくなってしまった。あのSNSの笑顔の写真たちがフラッシュバックする。新宿二丁目のバーに行ったからとて、ゲイという共通項があったとて、だからと言って誰とでも気が合うわけでもない。なら趣味や好きなことが掲載されているマッチングアプリならどうだろうと思ったが、趣味が合うからといって相性がいいわけではなかった。結局マッチングアプリを使って友だちという距離感でいられる知り合いを作ることはできなかった。ただ人と会うたびに一人の自分が浮き彫りになっていくのみだった。

そんな中でも実は会い続けている友だちもいた。それはパートナーとの友だちコミュニティに属していない友だちで、ゲイバーに毎週いくタイプの友だちではなかった。彼女彼らのおかげでなんとかやって来れたように思う。事情は知っているのに何も言わず、一対一でご飯を食べに行こうよ!と誘ってくれた。変わらぬ態度でいてくれた。
今思えばこんな風に声をかけてくれる友だちがいてくれるというのに、なぜ新しい友だちを作ることに必死になっていたのだろうかと思う。結局は失った友だちの要素を埋めてくれるような、似た新しい友だちが欲しかったのかもしれない。ゲイバーに慣れていて多くの知り合いがいる友だち。お店に入ればカウンターの中から名前を呼んでもらえる友だち。行けばそこに誰かがいて、約束もせず店でたむろできるイケてる自分と友だち。そんな友だちが。そういう人たちは20代の僕にはとても輝いて見えたし、到底手の届く存在ではなかった。でも30代になる中で、しつこく同じゲイバーに通うことでそういった友だちも増えていった。文字通りカウンターにしがみつくように肩肘を張って、孤独の中で居場所を守るように通い続けた。そうして出来た友だちはバーで遊んだり大人数で出かけたりするのはとても楽しかった。そして言葉にしてしまえば最低だけど、勇気を出して書いてみると「僕にはこんなにイケてる友だちがいるんだぜ」と、その友だちが僕の自尊心を高めてくれるような、自分もイケてるグループに入れた気にさせてくれるような、そんな一面もあった。

そして何より、僕は不安だったのだろうと思う。環境だけが変わって自分の気持ちだけが6年以上共に住んだあの部屋に取り残されてしまっていた。だったら前に進んでみればいいのだが、心だけが置いてきぼりになっている状態では進むことも変わることも出来なかった。だから自分ではなく、環境を変えようとした。いや、環境を取り戻そうとした。同じような新しい友だちを取り戻そうした。あの頃のような友だちが増えていくことで、輝かしい自分になれるような気持ちがした。パートナーにもふられて、友だちとも疎遠になった惨めな自分じゃなく、あの頃のように新宿二丁目で輝く友だちに照らしてもらいながら輝く自分が欲しかったのだ。そんな不確かなステータスを取り戻そうとした。

今思えばバーで出会った友だちとは大声で笑い合うことは多かったが涙を共有したことは少なかった。と言うより、ほとんどなかった。バーで出会った友達との時間は短い青春のような時間で、輝きだけが詰め込まれていた。そして青春はもう戻ってはこない。今もずっと僕の友だちでいてくれる人とは笑顔だけでなくいくつかの涙や悲しみを共有してきた。そのどちらか素晴らしいかという話をしたいのではなく、そこにはそんな違いがあったと思う。

疎遠になった友だちから、当時最適化された優しさをもらえなかったことに腹を立てたり傷ついたりした。今後僕はその自分の行動の結果と向き合うことになるのだろう。それでも大丈夫。今の僕は、あの頃より惨めな自分を受け入れて、少しだけ自信のようなものをもてるようになった。いや、そんなものを持てるような日もたまにあるといった方が正確かと思う。

あまりにも歯に衣着せぬ言葉で書きすぎただろうかと後悔を胸に抱えつつこの文章を書きました。



おねがい
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