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ケンカを見た日

木曜日の夜。リモートワークを終えて最寄りのバス停から中野駅へ行こうとしたところ、発車直前のバスを見つけて飛び乗った。中野駅北口側のバス停から改札までは一直線にたどりつける。バスを降りて、なだらかなアスファルトの坂を登ると今度は下りエスカレーターがあり、それがそのまま中野駅北口改札へと続いている。下りエスカレーターへの入り口にはちょっとしたスペースがある。そこでスーツを着た男性が、Tシャツを着た若者の胸ぐらを掴んで怒鳴っているのを見かけた。正確にはノイズキャンセリングイヤホンで音楽を聴いていたから、聴覚として怒声が聞こえてきたわけではない。胸ぐらを掴まれ顔を反らす若者と、その頬に噛み付かんばかりに口を大きく開いた男性が視界に入った。通行人らが二人を追い越した後に「どうしよう」といかにも心配そうな表情を浮かべ振り返る。そしてそのまま順番にエスカレーターにのまれていく。私もその一人だった。手に握った紙袋には菓子折りが入っている。自分には予定があるのだと、自らの非情な行動を菓子折りのせいにして中央線快速新宿方面の電車に乗った。

新宿駅南口を出て左折。まっすぐ新宿二丁目方面へ向かう。向かう先は2件。とある事でお世話になった方々へのお礼を伝えに行くのだ。1件目はスムーズに感謝を述べることができた。例の菓子折りも無事に渡せた。2件目にむかうため足早に仲通りを突っ切る。現在20時を過ぎたところだが、この時間だと意外と飲みに出ている人も少ないようで混雑もない。思ったよりも早く目的地までたどり着けた。雑居ビルのエレベーターの3Fのボタンを押す。エレベーターから降り、一部ガラス張りになっているドアから様子をうかがう。何やら会議をしているようだった。基本的にいつ誰がきても良いオープンスペースにはなっているのだが、今は違うよなと思い声をかけずに引き返した。

雑居ビルから出れば、そこは言わずと知れた新宿二丁目。せっかくだし軽く飲んでいこうかと思ったが、その気持ちはすぐに萎んでしまった。ここ数年すっかりこの町でひとりで飲む事は無くなった。それまでは、新宿に来る度に店をのぞいたり、誰か知り合いが来ないかなとぼーっと店で数時間つぶしたりしていた。それはそれで辛いのだが、そこがいわゆる居場所になっていた。いつもひとりぼっちと言うわけではなく、友人に声をかけてみたり、とりあえず行けば誰かいることを期待して入店したらやっぱり、という事もあったりで、飲んで喋って騒がしい時間を過ごした事もある。しかし、今は一人で飲みにいくことに対して緊張感があり、それどころかぼんやりとした憂鬱を抱くようになった。思い当たる原因らしきものは浮かんでくるが、浮かび切る前に思いだすのを拒否している自分がいる。ジムウェアとシューズがバッグに入っているのを思い出して、結局その日はジムに行くことにした。

週末を超えると大雨の月曜日がやってきた。雨音で寝不足だった。身支度している間もずっと雨音がしていたが、いざ外に出てみると止んでいた。幸運だと思ったのも束の間で、乗り込んだ満員電車は湿気が充満しており、その上とにかく暑かった。息をどれだけ吸って吐いても呼吸をしている気がしない。押し出されるように電車から降りて、乗り換えのためコンコースを歩く。その時、白いカッターシャツを着た男性がTシャツを着た男性に凄んでいるのが視界にはいった。
「ぶつかってきたよな?!お前からぶつかってきたんだよな!?」
怒鳴られた男性は顔を伏せながら半分無視するようにぶつぶつと何かを口にしながら足を止めずにいる。おい!と言いながらスーツの男は自身の胸を男性の体に押し当て、行手を阻もうとする。その両手はしっかりと腰より下で握られている。その特有の賢さに釈然としない何かを胸に抱えながら、私は足早になる。地上に出てコンビニで白いご飯とイワシの梅煮を買った。今日はスープジャーに野菜スープを入れてきたので、なかなか豪勢な昼食になるなと思った。さっき見たものは早いところ忘れてしまいたい。

夜、気分を変えて仕事をしようと、とある場所に来た。とてもイライラしている店員さんがいて、私にも他の客にも感情の棘を突き刺してきた。目を合わせず早口で、それだけなら全く問題はないが、舌打ちせんばかりの乱雑で適当な扱いをされる。攻撃的なその態度は、何もかもを恨んでいて、この世の全てを憎んでいるというような様子だった。きっと疲弊しているのだろうと思いはしたが、これ以上他人の感情を目の当たりにしたくなかったので、さっさとその場を離れた。その時、男性の低い声が響いた。なかなか大きな声でこっちがドキドキしてしまった。お客さんのひとりが店員さんの態度に我慢ならず、負けじと威圧的な態度で意見を言っているらしい。彼の言っていることは全てに間違いがなくピッタリと正しくて、エッセンスのように自身の人情が盛り込まれている。そこにベールに包まれたナルシシズムを感じ私は正直ゾッとした。店員さんはじっと黙っていたが、君はどう思うのだとそのお客さんに意見を求められた時に「はい。申し訳ございませんでした」と、ひょろひょろとした声を発した。そのお客さんはすっきりとした、満足そうな顔をしていた。嫌なものを見てしまったなと思った。


その胸オレに貸してくれ 第14回 ケンカを見た日

おねがい

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