「いや、違う」と言われて思ったこと
「いや、違う」「ううん、違う」という風にバッサリとした切り返しをされる。返す言葉もなくじっと相手の発言に耳を傾ける。そうすると、私の発言と全く異なるわけではなく、半分くらい合っているじゃん!ということが多い。もちろんどの程度を合っているとし、間違っているとするかの体感も人それぞれなのだが、完全一致検索に引っ掛からないものたちは全て「違う」と分類されることに違和感とキツさを感じてしまう。
確かに、物事に白黒がつけばわかりやすいなと思う。性格診断のフローチャートのように「あなたはAだと思いますか?」YESの場合は右へNOの場合は左へ。そして進んだ先に次の質問が準備されていて、繰り返していくうちに迷う事なく結果にたどり着くことができる。でも世の中そんなもんじゃないと言う事を知っている。何事にも背景や事情がある。完全な善悪と白黒のないで世界で生きている。それなのに、最近は討論まがいに相手を言いくるめたり、打ち負かしたりする事が流行っていて、ポジティブな注目が集まっている。動画コンテンツでは「すっきり」という言葉がタイトルに付いていることが多いが、打ち負かされた側の事情や見えない背景に感情移入してしまう私は「もやもや」してしまう。「じゃあ、流行っているという言葉を今使っていましたが、どんなデータを基に言っていますか?」と聞かれても、そんなものはない。そういうものが流行っていると感じていて、もやもやしているというこの感覚はどんなデータを持ってもひっくり返らないし、証明できなくとも存在している。
どんな物事をとっても、本来は多面的でわかりにくいものであるはず。だからこそ、わかりやすいものを求めるのかも知れない。最近は情報が溢れすぎていると言われる。でも情報は今も昔もずっと溢れて続けていた。違いがあるとすれば、情報の洪水が家の中にまで浸水してくるようになったことだろう。自分だけのスペースにまで外部からの情報が流れ込んでくる。チャットアプリ、各種SNSや動画サービスにより、常に外部と繋がっている。便利になっていくことに比例して、孤独を楽しむ場所が侵食されていった。しんと自分の思考を整理する時間がないまま、次から次に情報が入ってくる。情報について考える時間がないから、よく噛んでやっと飲み込めるものよりも、咀嚼する必要のないサイズに切り取られたものが求められるのだろう。その食べやすさこそが、わかりやすさなのかもしれない。わかりやすい情報は、きっと便利なのだ。
便利なものは成功体験の機会を奪うし、わかりやすいものは考える力を奪う。いつもそうだとは思わないが、そういう側面を持っている。便利さやわかりやすさの影響を考える時にも「そのような側面がある」という曖昧さが生じる。しかし、わかりやすさの世界では曖昧さは許されない。わかりやすいものが正しく、わかりにくいものは間違いであると正誤で二極化されていく。その間にあったものたちは、削ぎ落とされ、反論の余地すら残されず、ないものとされていく。
わかりやすさが求められるようになってきたのは、時間対効果が重要視される時代の流れも関係しているのだろう。データ化されていないもの、証明されていないもの、完全一致検索に引っ掛からないもの、そしてまだ言葉になっていないもの、そういった形になっていないものは確かに存在している。そこを慮る想像力と思いやりが、日に日に欠け始めているような、ぼやけた不安を感じている。
その胸オレに貸してくれ 第15回 「いや、違う」と言われて思ったこと
おねがい
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