Little Woman〜私の物語〜Ⅰ

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2020年2月、2回目の映画”Little Woman”をバンクーバーで観た。私はこの映画がとても好き。理由はたくさんある。(キャストが好き、風景が好き、音楽が好き、衣装が好き・・・)でも、何よりもこの映画を観終わったあとのなんとも言えない温かさが好き。28年生きてきた今までを振り返ってみてもいいかな〜と思い”私の物語”を残してみる。(日本では2020年3月に”ストーリー・オブ・マイライフ〜わたしの若草物語〜”という題名で公開予定)

”小さい頃は何になりたかった?”そんなことを1年前に聞かれて、私は答えられなかった。本当のことを話すのが恥ずかしかったから。”今からでも遅くないよ”と言われるのも正直のところ面倒だったから。そこに挑まなかった自分の姿が嫌いだということもあるのかもしれない。理由はたくさんあるのだが、自分が夢を語ることで叶えられなかった自分にがっかりしたくないのが一番の理由かもしれない。

私の小さい頃の夢はミュージカルの舞台に立つことだった。踊って歌って拍手をもらうことが私の夢だった。それは親にも言っていなかったし、誰にも言えない夢だった。小さい頃からクラシックバレエを習っていて、舞台とは割と近い存在だった。母が宝塚歌劇団が好きで小さい頃からよく観ていたということもある。アニーのオーディションに応募したいと思ったこともある。でも小学生ながら、”もう始めるのは遅い”と思っていた。あとはあの厳しい世界の中で生きていける自信も正直なかった。今思えば、あの頃から”のんびり生きていきたい”という想いは私の中にあったのかもしれない。

4歳から14歳までの10年間クラシックバレエを習っていたが、特に才能があるわけではなく、発表会のドキドキと光を浴びるあの感じが好きだったから10年間やっていたんだと思う。(かわいい衣装も着れたし。)そこまで真面目にやっていたわけではないが、毎年夏休みには発表会のためのレッスンがあった。終わったあとにアイスを買ってもらえたり、発表会の後に家族みんなで「とんでん」でご飯を食べる時間がすごく好きだった。途中で学校のみんなと遊ぶ方が楽しくてバレエを辞めたいと言った時もあったけど、母は辞めさせてくれなかった。大人になってから聞いた話だが、”あの時バレエを辞めていたらグレてたでしょ?”母親ってすごいと思う。確かに、私があの時バレエを辞めていたら何もかも中途半端に投げ出す人間になっていたかもしれない。

10年間は続けようと心に決めて、受験勉強を理由に辞めた。クラシックバレエを辞めてから、運動神経だけやたら良かったのでスポーツを初めてみた。その頃、野球アニメの「メジャー」をみていたので、思い切ってソフトボール部に入部してみた。初心者が多い部活だったが、ほぼ毎日練習があって真面目に活動している部活だった。大きなエナメルバックを持って毎日泥だらけになって練習するスポーツ少女って感じの子だった。中学生まで長かった髪をバッサリ切って、部活動に明け暮れた。なぜ私があの学校に入学できたのかわからないほど、私は勉強ができなかった。数学の時間50分間、爆睡。授業が自習になると友達と大貧民(トランプ)するか保健室で仮眠をとる子だった。テストで青点(赤点の半分)をとったり、成績表に1がついたりする事もあった。今では笑い話だが、父親が高校の教師だった事もあり、事実は親に話せなかった。

そんな高校3年の夏、進路を決める時期が来た。みんな大学に行く。そんな日本の風習にのっとり、私も大学を志望した。特にやりたいことが思いつかなかった。あの頃から人生に迷い始めていたんだと今では思う。部活をみんなが引退する中、一応進路を体育大にしていたので私は部活に残った。その時の部員数が少ないという事もあったし、部活を辞めて受験勉強するのが面倒で、避ける理由が欲しかった。秋になって希望の大学を決めなければいけない時期になったので、大学の見学にやっといき始めた。有名な体育大にいけば、親も安心するだろうと思ってたいして真面目に大学は探さずにそこに行く予定だった。その頃は野球が大好きだったので、野球が有名なところも行ってみるかな〜と軽い気持ちで行ったのが私の入学する大学だった。体育学部があったし、教員免許も取れるし、家からは2時間くらいかかる場所だけど面白そうだから受験だけしてみようと思った。テストではなく自己推薦という制度での入学になったが、作文と面接の時間だった。面接官(当時の学科長)を笑わせて私は入学した。文章を書くのは小さい頃から得意だったし、個別指導で作文の書き方を習っていたので作文はほとんど規定の文字ぴったりまで埋めた。(細かくは覚えていないが、我ながらいい作文だった気がする。”生きる”ことについて書いた気がする。)受験が終わった日に父親と2人でお好み焼きを食べに行ったのは私にとって忘れられない思い出だ。

大学に入学してラクロス部に入って、私の今までの人生の中では一番濃い時間を過ごした。この時期に関しては文章にできないほどのいろんな事があって上手く書けないので詳細は書かない事にする。大学の頃も勉強はしなかった。ラクロスに全てをかけていたし、それなりに遊べた時期だったし、一番自由で好きなことだけをやっている時期だった。その中にも大きな挫折があったり、迷いがあったり、たくさんの葛藤の中で生きていた。ただ、この4年間で”チームマネージメント”を学ぶことができた。あの頃、もがきにもがいたからこそ今があると本気で思う。特に大学3年生の時はとにかく辛かった。何をやっても結果が出ない時期を経験した。たくさんの人を恨んだし、物事を上手く進ませることのできない自分を嫌った。振り返ってみたら、この頃”感謝”をすることがほとんどなかった。”なんで?””どうして?”そんな泥沼にはまっていた頃だった。泥沼にハマっている最中にまた進路を決めなければいけない時期が来た。今度は就職活動だ。何かをして働かなければいけない。部活でいっぱいいっぱいの私にとって将来の自分を考えることなんてできなかった。人生が泥沼だと思っているのでもちろん、物事は上手く進まない。周りと同じように就職活動しているつもりだが、採用はもらえない。むしろ就職する気持ちがないのを面接官に見破られていたのだと思う。教員になる事も考えたが、ワクワクしなかった。とにかくラクロスのチームが一番大切な私にとって、夏のリーグ戦が始まる前までに就職先を決めなければいけなかった。(リーグ戦に集中したかったため。)そこで、2日で決まるという就職先を見つけた。そこが後に私の人生を変えた会社だった。

就職先が無事に決まって、リーグ戦に集中してラクロス漬けの学生最後の夏を過ごすことができた。最後はいい形でチームを作ることができたと私は思っている。そして結果としても1年間で目指している結果は得ることができた。学生時代に憧れていた結果ではなかったが、私の中ではそれ以上に素晴らしいものを得ることができた1年だった。この時期に”感謝”することを覚えた。家族の支えがとても大きかった。父親は全ての試合を見に来てくれた。アドバイスや励ましの言葉をかけるわけではなく、”次も観に行くね”その言葉が何より私の力になった。最高の父親だ。そして、母は毎回試合前にオヤジギャグのようなゲン担ぎで私を試合に送ってくれた。お茶目な母らしい応援スタイルだ。そんな母が大好きだ。リーグ戦の最終戦では、叔母も見に来てくれたり、当時つき合っていた彼も見に来てくれた。最後の試合には、大学の先生や他大学の友達、高校時代の友達まで来てくれた。本当に幸せな瞬間だった。あの時の喜びと緊張と迫力を忘れることはない。

そんな青春時代を過ごして、燃え尽き症候群になったのが大学4年の冬である。

Little Woman〜私の物語〜Ⅰ(学生編)


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