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濵井德三さんと広島県産業奨励館

今日は朝から原爆ドームの写生大会に子どもたちを連れていく予定だった。バタバタと準備し、新聞を読む余裕もないまま、そろそろ家を出ようと思ったころ、取材先からLINE連絡が入った。

「ご存知かもしれません。残念なニュースです」
濵井德三(浜井徳三)さんが亡くなったという。

今月に入って、LINEでメッセージを送っても既読にならないし、電話を鳴らしても応答がなかったので、心配をしていたのだが、とうとうこの日が来てしまった。

予定通り、写生大会に行き、照りつける太陽の下で絵を描く子どもたちとともに原爆ドームを見つめていると、濵井さんとのいろんな思い出が蘇ってきた。

朝日新聞記者時代、10年ぶりに広島に転勤してきた2017年、その年の8月6日に広島県内限定で発行する原爆の日の特集紙面の取材で知り合ったのが濵井徳三さんだった。前年の秋に公開され、ヒットしていた映画「この世界の片隅に」をフィーチャーする紙面。平和記念公園にある原爆の子の像の近くの芝生のあたりに、1945年8月6日午前8時15分まで存在していた「濵井理髪館」の次男坊。父も母も兄も姉もみんな原爆に殺され、小学5年生でたった一人残された濵井さんにお話をお聞きすることにしたのだ。

世界遺産・原爆ドームがある広島の平和記念公園は、今では緑豊かな公園だが、原爆投下前までは、住宅や商店がびっしり立ち並ぶ広島屈指の繁華街だった。「この世界の片隅に」には、監督の片渕須直さんが、長い時間をかけて調べ上げたかつてのまちの様子が生き生きと再現されていた。中島本町(現在の中島町の一部)にあった濵井理髪館も、映画に登場する。

原爆で犠牲になった濵井さんの父・二郎さんや、母・イトヨさんら家族と一緒に。

まさに、その場所付近で、お会いしたのが初対面だったように記憶している。
「この世界」で広島弁監修をし、なんと6つの役で声優としても出演している栩野幸知さんに東京から広島に来ていただき、「ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会」の中川幹朗さんや広島フィルムコミッションの西崎智子さんも一緒にお会いした。みなさんの集合写真のシャッターを切らせていただいたと記憶している。

左から、栩野幸知さん、濵井德三さん、中川幹朗さん、西崎智子さん

声が大きくてよくしゃべる元気なおじいちゃん。私はずっとそう思っていたが、濵井さんともう20年のお付き合いがある中川さんから「初めてお会いした時には、どちらかといえば無口な方でした」と教えていただき、驚いた。

濵井さんがどんな人生を生きてきたかは、新聞やらテレビやらいろいろ報道されているので見ていただきたい。ただ、一番詳細に記されているのは、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会が刊行した本だと思う。特に、濵井さんと亡くなったお兄さんの玉三さんが並んで、原爆ドームが原爆ドームと言われるようになる前、つまり原爆投下前に「広島県産業奨励館」と呼ばれていたころのスナップ写真が表紙になった、「証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町」は、濵井さんの話し言葉で、たっぷりと家族や町の思い出が語られている。

中川幹朗さんの「ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会」が刊行した本の数々

あまりにも素晴らしい本なので、2017年11月1日付の広島のページで丸々1面使って紹介させていただいた(残念ながら、デジタル版からは消えています)。ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会のtwitterへのDMで本は入手できますのでぜひ。

前述の朝日新聞時代の企画(2017年8月6日付朝日新聞広島版別刷)はこれ。

他にも何度も濵井さんや、映画「この世界の片隅に」そして、原爆が消した町・中島本町についての記事は書きました。

わたし自身の無知を恥じたのと、読む人に、戦争を地続きなものとして考えてほしいと思ったからです。

世界遺産・原爆ドーム。かつての濵井德三少年の遊び場だった
2021年春にかけて補修工事をしていた原爆ドーム

わたしは、朝日新聞を退社してから、むしろお会いする機会が増えたように思う。被爆者の聞き書きを日英両語で発信してきたHIROSHIMA SPEAKS OUTのみなさんが濵井さんに取材をするのに同席させてもらった。今から1年ちょっと前、2022年の夏前の時期だ。わたしは撮影係を勝手に買って出た。

悲しい記憶を背負いながら、それでも濵井さんはいつも笑顔だった

そして、わたしも、長崎大学核兵器廃絶研究センターのプロジェクト「被爆前の日常アーカイブ」で、濵井德三さんの古い写真を教材として使わせていただくことにした。また改めてゆっくりいろんな話をお聞きした。

久しぶりに「この世界の片隅に」の監督の片渕須直さんとも連絡を取ると、この企画に快く協力してくださった。



原爆ドームを見つめながら、鉛筆や絵筆を走らせる子どもたちにも、「はまいのおじいちゃん」が亡くなったことを伝えた。「うそじゃろ」と驚きつつ、最後に家族で会いに行った2月には、はまいのおじいちゃんはもう自分の部屋で横になっていたことを2人とも思い出したのか、黙り込んでしまった。

写生大会

親すら戦後生まれのわたしには、戦争とはどういうものかを、説得力を持って、子どもたちに教えることができない。被爆した祖父母の話は時々するが、二人ともすでに他界していて、伝聞にしかならない。

でも、はまいのおじいちゃんは、自分の体験として、目の前で語ってくれた。原爆ドームが広島県産業奨励館だったころ、建物の中にあったらせん階段で遊んだりしていたという思い出を知った子どもたちは、この建物の元の姿に子どもたちなりに思いを馳せ、原爆が奪ったものが何かを一緒に考えていた。

子どもたちのことを本当にかわいがってくださり、家にも遊びに行かせていただいた。昨年の8月6日の平和記念式典後、濵井さんが世話人を勤めていた中島本町の慰霊祭の会場を通りかかったとき、一緒に写した写真が、子どもたちと濵井さんが一緒に写った最後の写真になってしまった。

娘は来年、濵井さんが一人ぼっちになってしまった年である小学5年生になる。

広島平和記念資料館本館下

写生大会を終えて帰宅途中、子どもたちと広島平和記念資料館の下を通った。ちょうど広島国際会議場側、建物の西端付近に、かつて濵井さんが通っていた無得幼稚園があったということを伝えた。子どもたちは、立ち止まって考えていた。

平和記念公園にどんな町が広がっていたか。
原爆が何を奪い去ったか。

地元中国新聞のサイトに、爆心地復元地図があるので、見てみてください。
そして、濵井さんの自宅である浜井理髪館や、彼が通った無得幼稚園を探してみてください。

帰宅して、地元中国新聞を広げると、一般訃報欄に掲載があった。
ああ、本当に、逝ってしまったんだ…。しかももうサヨナラも言えないんだ…

2023年7月22日付中国新聞訃報欄

濵井さんは昨年秋ごろから体調を崩し、検査や入退院を繰り返していた。
ときどきLINEで愚痴や弱音のようなメッセージが来たりしたが、毎月6日の朝、原爆供養塔に行く帰りに、中島本町の慰霊碑である平和の観音像に立ち寄り、濵井さんのご家族の名前を拝んで帰っているわたしは、すっかり体が弱って平和記念公園になかなか来られなくなった濵井さんのために、時々写真をLINEで送っていたりして元気づけようとしてみたりした。

かつて中島本町があった場所にある平和の観音像


今年に入ってからだったか、世話人のところが新しくなった。濵井德三さんの名前も


「浜井二郎、糸代、玉三、弘子」。濵井德三さんの大切な大切な家族
平和の観音像前にある復元地図

G7広島サミットに合わせた取材を受けたようで、開催に先立ち、首脳たちが訪れる前の平和記念公園に久しぶりに行った、という連絡が来た。家族の名前が刻まれた銘板の前で車椅子姿の写真と「空気が美味しい思いしました」というのが、わたしに届いた最後のメッセージでした。


今日、2023年7月22日の原爆ドーム


わたしのiPhoneに残る最後の濵井德三さん。2023年2月

ありがとう。さようなら。濵井德三さん。

わたしは濵井さんから、見えないものに目を凝らし、聴こえない声に耳を澄ませることの大切さを教わりました。

向こうで久しぶりにご家族と会えますね。お母さんに思いっきり甘えてください。

母イトヨさんと德三少年。濵井理髪館前で


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