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地元の選挙区から総理大臣が誕生した日に考えたこと

広島から総理大臣が誕生した。広島1区選出の岸田文雄さん。宮沢喜一さん以来30年ぶり4人目で、広島市内からは戦後初という。しばらくぶりに「総理のお膝元」となった広島の街は、マスメディアも含めてお祝いムード一色。地元紙によると、新型コロナウイルスの緊急事態宣言解除も背景に、広島市内ではお祝いに贈る用のコチョウランが品薄という。地元テレビ局では、東京の会社が議員会館で売り出した「キッシー瓦版煎餅」が広島でも販売開始、という話題を放送していた。

有権者になって、20年以上経つけれど、自分の選挙区選出の政治家が総理大臣になるのは初めてだ。横浜市で選挙権を得て以来、引っ越し後の選挙で不在者投票の封筒が来ないミスがあった時以外は、どんな小さな選挙でも欠かさず投票をしてきた身としては、ある種の感慨深さはある。

それに加えて、命を削って核兵器廃絶を訴えてきた被爆者の方々(多くはもう亡くなられた)や、国内外の人々と手をつないで平和への具体的な行動を起こしてきた草の根の人たちを記者として何人も取材してきた身として、そして、原爆の惨禍を生き抜いた祖父母を持つ(今はもう2人とも亡くなったが)孫として、ある意味期待感も抱いている。

何よりも、岸田さんは「核兵器なき世界へ」という著書もあり、原爆ドームや平和記念公園、保存論議が続く戦争遺跡「広島陸軍被服支廠」などがある広島1区選出の政治家だ。4日夜にあった記者会見でも、従前通り「核兵器廃絶は私のライフワーク」と力強く述べた。

記者会見の様子をパソコンで見ながら、私は、夏に自宅のポストに投函されていた、岸田さんを紹介する自民党の広報紙が気になって再び取り出してみた。なんの気なく保存していたのだが、原爆ドームを背景にした岸田さんの写真をトップに、活動報告や活動方針などが記されているものだ。

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原爆ドームを背に笑顔を見せる岸田さんのメイン写真と、2016年のオバマ米大統領(当時)広島訪問時にオバマ氏を先導して平和公園内を歩く岸田さんのサブ写真の計2枚をあしらった表面、そして裏面にも、核兵器廃絶への決意を記した文章は見当たらない。書かれているのは、主に経済政策やコロナ対策だった。だったら、それらに即した写真を使えばいいのに、と思った。新聞社で働いていたが、写真付き記事の場合、基本的には写真と記事は連動しているものだ。

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(著作権の問題もあるので全体をぼかしています)

他にも色々と国政の課題はある。それはわかる。でも、広島選出の政治家なら、原爆ドームを、単なる壁紙に使うようなことはしてほしくはないなと思う。他のどの政治家よりも、核兵器廃絶に近づく具体的な決意を、ドームの写真と一緒に記してほしかった。

というのも、ここ数年、8月6日の広島原爆の日に、原爆慰霊碑の前で発せられる総理大臣のあいさつや、核兵器をめぐる日本政府・総理大臣の姿勢に、失望させられ続けているからだ。平和記念式典では、「唯一の戦争被爆国」として「核兵器のない世界」を題目のように必ずスピーチの中で触れながら、中身が伴わない。米政府が小型核開発、つまり使いやすい核兵器の開発の方針を示すと、「抑止力が強化される」と日本政府は歓迎した。

同じく米政府が、核兵器の先制不使用の方針を示すと、日本政府が反対をしたとの報道もあった。

「核兵器のない世界」を目指すどころか、「核兵器による平和」を目指しているようにしか、見えないのだ。

「核兵器のない世界」を著書のタイトルに据えたように、しっかりライフワークとして取り組むのならば、その決意を、できるなら、来年8月6日の広島原爆の日に、原爆慰霊碑の前でしっかりと示してほしいと願う。核兵器廃絶を訴えてきた多くの広島市民もきっと同じ思いではないだろうか。

切に願う理由はもう一つある。この夏の広島原爆の日の総理大臣あいさつが、あらゆる面で残念だったからだ。私は先日、あることを取材し、記事にした。

今年8月6日の平和記念式典で、菅義偉首相(当時)が、「唯一の戦争被爆国」として「核兵器のない世界」を目指すという、スピーチの最重要部分を読み飛ばした。それを、蛇腹状のあいさつ文が、のりが付着してはがれない状態になっていたと首相周辺の政府関係者が説明した、という報道を受けて、あいさつ文の現物を見に行った、という話を書いた。

読み飛ばし自体も、とても残念なことだったが、わたしは、その「失態」の原因が、蛇腹状に折り畳まれた原稿を作成した役人のせいだという「政府関係者」の釈明を、マスメディアの報道で知り、なんとも言えない気持ちになった。だから、この挨拶文の原本が広島市に保管されていると知った私は、公文書の開示請求をして、その現物を見に行き、見たままを記事にした。

76年前に核兵器の犠牲になった人たち、その後を生き抜き、核兵器廃絶を見届けずに亡くなった人たち、そして、今日この瞬間も、現場で一生懸命汗を流している首相周辺の人たちのことを思って書いた記事だ。

もう2ヶ月も前の話を蒸し返してどうするの、というような声も聞こえたが、広島で、本気で核兵器廃絶を願う人たちにとっては、平和記念式典は年に一度の大切な儀式であり、が故に、原爆で犠牲になった人たちや、その後を生きて核兵器廃絶を見届けずに亡くなった人たちの名前が32万人分以上収められた原爆慰霊碑の前で、核兵器廃絶に向けてどういう誓いを立ててくださるのかを見守るのだ。核兵器廃絶に関心のない人たちから見たら、そんな昔のこと、あるいはそんな些細なこと、かもしれないが、草の根で一生懸命行動を起こしている広島市民にとってはとても重要な日の出来事だったのだ。

ちなみに、岸田さんが第100代首相になった今日、官房長官が会見に臨み、この件についての記者からの質問に答え、「のり付着」を否定したという。

そういうこともあったので、広島での平和記念式典での総理大臣あいさつを、広島選出の岸田さんにはちゃんとしたものに戻してほしいな、と切に願う。

カナダ在住の被爆者で、国内外で力強く核兵器廃絶を訴えてきた広島出身のサーロー節子さん(89)は、遠縁にあたる岸田文雄さんに、核兵器なき世界への力強いリーダーシップを発揮することを願うメッセージを寄せた。節子さんの姉の息子、つまり彼女のおいは、わずか4歳の人生を、米軍が投下した核兵器によって奪われた。その名を岸田英治くんという。

新聞記者時代、私も節子さんの話は何度も聞いた。当時の総理大臣に対して、同じように力強いリーダーシップを求めていたのを記事にしたことがある。核兵器禁止条約が発効することが決まった時の報道だ。

節子さんは、岸田英治くんの思いも背負って、海の向こうからずっと、日本が力強いリーダーシップを発揮することを願い続けている。彼女が生きているうちに、その道筋を、明確につけてほしいと私も願う。

岸田さんは、自分の特技を「人の話を聞くこと」だという。

広島の被爆者団体は、年に一度開く会議に、毎年広島選出の国会議員を招いているが、少なくとも核兵器禁止条約が採択されてからのこの5年、岸田さんは一度も姿を見せていない。広島県原爆被害者団体協議会(坪井直理事長)によると、同じく招かれた他の自民党議員の中には、毎回必ず家族や秘書などを代理で出席させている人もいるが、岸田さんは、本人はおろか代理出席も一度もないという。(同じ自民党でも、平口洋議員は特に熱心だ。妻が出席しているのを私も複数回見たことがある。旧陸軍被服支廠の保存を考える市民団体の会合にご本人が出席しているところをお話しさせていただいたこともある。)

広島ゆかりの若者たちで作る「核政策を知りたい広島若者有権者の会」(通称・カクワカ広島)は、広島ゆかりの国会議員に、直接アポ入れをして、核兵器廃絶に関する質問をぶつけ、それを公開するという活動を続けているが、岸田さんの事務所は対応してくれないという。

私たち広島市民がいつもいつも見上げてきた原爆ドームは、声なき証人だ。黙って、私たちに訴え続けている。そして、76年前、核兵器の犠牲になった人たち、そして、核兵器廃絶を見届けずに死んでいった被爆者たちは、いずれももう話をすることができない、声のない人たちだ。

広島という街は、こうしたものにも、耳を傾けなければならないまちだ。

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人の話を聞くことが特技だという岸田さんには、声をあげている人の話はもちろん、ヒロシマの声なき声にもきちんと耳を傾けてほしい。

原爆ドームを、単なる壁紙にはしないでほしい。




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