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分かり合おう、なんて無理。未知にふれる楽しみを味わう

35歳私、41歳彼。共に離婚歴ありで「法律婚はもうええわ」党員。仲の良い関係性、恋人の距離感を保つために意識的にしている言動を綴ってみる。

彼に限らないけれど、他者とは分かり合えないものだと考えている。だから、彼との間でも「分かり合おう」という方向性での努力はしない。

これは、相手を知ろうとする行動を放棄することではない。思想や背景を知って、それが自分のそれとは相容れないものだとしたら、無理に飲もうとはしないということ。

「そうか。あなたのあの言動は、そういう経緯で出てきたものなのね」と、プロセスを整理して振り返るだけ。

思想が違うもんは違う。一方にとって「快」であっても、他方にとって「不快」なことはある。そこは一致させなくていいのだ。

「ものさし」にも個体差や経験、趣味嗜好による差があるわけで、それぞれの快・不快を押し付け合うこともしない。

できることはといえば、問題が生じたときに、各々の快・不快を開示し、「あなたはそうなのね」と受け止め、「互いの快・不快ポイントも知っとこうか」と、それらを頭に入れておくこと、くらい。

違和感や疑問、不快をおぼえた言動を材料にして相手を紐解くことで、この人の本質に触れることはまだまだできていないなあ、と自覚するくらいでちょうどいいと思うのだ。

「この人のことはよく分かっている」「相手のことは十分に知っている」「だから分かり合える」と思うのは幻想であり、傲慢。加えて、相手に対して失礼だと私は考えている。

人間はそれほど単純なものではない。多面的であるし、秘密を抱えてもいるし、些細なことで心は簡単に揺れ動き、それに伴い言動も変わるし、日々刻々と移ろっていく。

十何年関わりがある相手であっても、未知の部分はあるし、時を経て新たな未知領域は増える一方。

そもそも他人の頭の中、心の中なんか覗けやしない、という前提だってある。

私は彼のことを分かったつもりにはなれない。分からないことだらけだ。距離感の近い相手ではあるけれど、事実、ほとんど分かっていないに等しい。

逆も然りで、彼も私のことは分かっていないし、分かろうとしてもそんなの無理よ(けっこうなややこしさを抱えているからね)。だから、分からなくていい。

「新たに相手のこんな面を知れた」という、純粋な開拓欲を満たし、喜ぶ自分でありたいと思う。

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