「“いい恋人”でいたい」なんて1ミリも思わないけど、パートナーの笑顔は見ていたい。
「いい恋人」「いい妻」でいたい、と、がんばっていた時期があった。
(他者と比べることなく、私を「いい」と思っている)パートナーに対し、(あくまで“私基準”で)完璧とまではいえなくても、“ふたりの間においては”完璧に近い人でありたいと、思い込んでいたのだ。
この人の前ではきれいなところだけを見せよう。バランスのとれた食事をきれいに作ろう。ふたりで過ごす家をきれいに保とう。
そんな、表面的なことばかりに心を砕いていた。すべては「いい恋人」「いい妻」でいるために。
35歳の今、「いい恋人」でいよう、という意欲は失われて久しい。相手にとって好もしいことなのか、そうでないのかはわからないけれど、良くも悪くも「いい○○」という考え方をすることがなくなった。
そもそも「いい」とは、誰にとっての「いい」なのか。「いい」を決めるのは誰なのか。何者かが定めた「いい」の枠に自分が収まる必要はあるのか。
「いい」に縛られることなく、気ままに振る舞う自由さを纏った代わりに、そんなことを理屈っぽく考える、ちょっと面倒くさい人と化している。
パートナーには幸せであってほしい
「いい恋人」に捉われなくなった今、いつも頭にあるのは「パートナーが笑顔でいるかどうか」。私と一緒にいるときも、いないときも、総合的には幸せでいてほしい。ただ、それだけ。
人々の命と至近距離で向き合う仕事をしている彼は、ハードな日や大変なことも少なくなくて、気分が塞ぐときやぐったりするときもあるだろう。でも、共にいるときも、別々の場所で生活しているときも、私と関わることで彼の中で心地よい・楽しい時間の割合が増えたらいいな、と願っている。
自己肯定感が比較的高い私は、自分のことをこう捉えている。ほどほどに小綺麗・清潔感がある・健康的・元気・さっぱり、あっさりしている・自立している・綺麗好き、という特徴があって、そんな私と付き合う相手はラッキーな人よねと思っている。
とはいえ「35歳・バツイチ・子なし・自らの妊娠/育児に興味なし」という背景に加え、やはりある種の「クセの強さ」があるとも自覚している。
離婚してから6年、ひとり暮らしを味わい尽くしてきたことも、結婚を希望する相手に「仮にしたとしても別居婚じゃないと無理」と伝えてきたことも、見方によっては頑固ともいえるし、ひとクセどころじゃないクセを抱えている。かといって、こういうクセを矯正するつもりもない。
そんなクセのある私を大事にし、大好きでいてくれる相手は懐が深い。「あなたは私と付き合って幸せね。良かったね。ふふふ」と思いながらも、当然ながら「ありがとう」という感謝があるから、行動原理は自然と「相手が笑顔でいられること」に基づくものになる。
ひとりで生きていたら、気づけなかった
それは「尽くす」のとは違う。そもそも、尽くしたいとは思わない。ただ、「自分自身が楽しいか」「自分も笑顔でいられるか」は忘れないようにしている。
こみ上げる笑いを抑えない、楽しければ思いっきり笑う(笑いすぎてぶさいくな顔になったり、涙が出てアイラインが滲んだり、腹筋がひきつったり、なんてことは気にしない)、綺麗・清潔ではない自分も見せる(健康でいるための運動を毎日するので、汗だくのドロドロな姿だって見せることがある)、ふたりで楽しめることをする(出かけたり、家ごはんを楽しんだりというのはもちろんだけど、「鼻毛ワックス脱毛」を家ですることもある。どちらがたくさん抜けるか月1で競い合う。飽きることなく、爆笑タイム)とか。
食事を作るのも、すぐ洗い物をするのも、部屋中を綺麗にするのも、そうした方が自分も楽しく、笑顔でいられる(=心地よく過ごせる)からであり、同時に彼もいい気分でいられるから(温かい食事と綺麗な空間を嫌いな人はいない)。
昔もそれらを自らやりたくてやっていたけれど、「完璧な恋人」「完璧な妻」でいたい、という思いにがんじがらめになっていた。その頃と比べると、マインドが明らかに変化した。
「いい○○」を捨てると、相手の幸せを祈る余裕が生まれたり、感謝の念を忘れずにいられたりする。
これは私にとって、ひとりで生きていたら気づけなかったこと。気づかせてくれた最愛のパートナー、過去のパートナーたちに、改めて「ありがとう」を伝えたい。
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