ぼくは仕事ができない

『ぼくは勉強ができない』という有名な小説がある。小学生のときに初めて読んだ。インパクトの強いタイトルは、以後ずっと自分の中に残っていて、自分の不出来さが嘆かわしいとき、「ぼくは勉強ができない」と独りごちることもあった(主に受験生の頃だったか)。

半年ほど前、「ぼくは仕事ができない」と自宅で独りごちた。二度ほど繰り返して、ぼんやりとしていた。薄々気づいていたことだけれど、それがようやく実感に変わった瞬間。自分は仕事ができる側の人間ではないなあ、と。「……って、それ思うの遅くない?」「半年より前、あんたは仕事ができるって自信持ってたんか? 冗談きついわ」という感じだけど。

さまざまな仕事を抱えている。ときどき、意図して優先順位をごちゃごちゃにし、ギリギリになって着手することがある。◯月◯日と設定した〆切は必ず守るけれど、ああ、気が進まないなあと思い、忘れたふりをかまし、自分の脳と手からしばらく手放すことがある。キャパオーバーだなと感じることがある(でも、あの人なら、これくらいの量なんて難なくこなせるだろうな、とできる人のことを思い浮かべると、自分ができない人間だと自覚することになる)。

ああ、だめ人間よ。ただ、できないと確信してから、変わったことがある。周囲に引っ張り上げてもらっているのだ、助けられているのだ、なんていい人たちが多いんだ、と、本当にありきたりなことだけれど、人への感謝が大きくなった。不出来な自分を助けてくれて、ありがとうございます、と心の中でお礼を言う。

自分の至らなさ、だめさ、できなさを実感するのは、できない人間にとってはとりわけ必要なことだと思う。調子が良い時期があると、「自分はけっこうできているんじゃないか」「案外いけてるんじゃないか」と錯覚する。それはゆるみやたるみにつながる可能性がある。特に自分のような、できない人間においては。できる人間は、「できるんじゃないか」など思わない。そんな風に寄り道する瞬間もなく、黙々と前に進んでいる。

できない人間です。でも、誰かの前で口に出しては言わない(言霊を信じているし、口に出して「自分はできない人間です」と言うと弱そう、頼りなさそうに見えるから)。ただ、自覚はする。そうすれば「自分、できてんじゃないのか?」なんて、根拠のない思い込みをせずに済むから。

「漂えど沈まず」――開高健さんが遺した名言、パリ市の標語というのは後に知った――という言葉を5年前、著名なジャーナリストの男性から授けてもらった。実績もないのに会社を辞めて、無謀にも自営業になったばかりの頃。これまた自分を度々助けてくれた恩人といえる某氏が、当時ろくに稼ぎのなかった自分を気の毒に思って呼んでくれた飲み会でのこと。この世界で長くサバイブしたいなら、この言葉をいつも頭に置いておくといいよ、と彼は話した。

彼の助言を意識している。ブレイクすることはなくても、“海底”に近づくことはないように、目の前のことに淡々と取り組み、海面付近で揺蕩う状態は維持しよう、と。そのためにも、できる、なんて思い上がってはいけない。そもそもできる側にいないのだから、と自戒を込めて、今日もできる側に近づくよう、1ミリずつでも進化するのみ。





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