まんが家はシャーマンである。



長いことまんがを描いていると、不思議な気分になるときがあります。それは、「作品から選ばれた」という感覚です。自分が悪戦苦闘して「創り出した」というより、作品の方が「生まれたがって」いたんじゃないか、って。

なぜって、話の流れ、キャラの設定、それらすべて、整合性のある「自然な物語」というものは描こうと思って描けるものではないからです。

「頭」だけで考えて描こうとすると、「彼方(あちら)立てれば此方(こちら)が立たぬ」、そぐわないピースをはめ込もうとしてゆがんだパズルよろしく結果的にでき上っても「嘘のある作品」になるか、そもそも、途中で作業が進まなくなり「形にならない」ということになるわけです。

だから、いくら作画の技術が優れており物語の作り方みたいなものを心得ていても、完全オリジナルの作品を描けない、という状態というものは存在します。

私の仕事を手伝いに来てくれているまんが家志望の女子たちを見ていると、アニメやまんが、タレントを題材に活発な同人誌活動をしているのに、「自分の作品」が描けない。出版社に持ち込もうにも、最初の投稿作が形にならない、のです。

作画の綺麗さでは、私なんかより彼女たちの方が数段上です。彼女たちより魅力的なキャラを私が生み出しているわけでもない。それなのに、私に描けるオリジナルまんが作品が彼女たちには描けない。

これ、単なる「技術的な才能」の話とは違うんじゃないでしょうか。


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    「本当の宝石をみつけた人」タカノユウ


絵がリアルに描ける、または作画の技術が優れていても、オリジナルまんが作品は描けない。

魅力的なキャラが描けても、オリジナルのまんが作品は描けない。

魅力的なエピソードを紡ぐだけのリアル実体験が彼女たちに少ないこと、これもひとつの要因ではないかと思うのですが、私はもうひとつ別の推理をしてみたいと思うのです。


まんが家の才能というのは「物語」を、呼び出す才能なのではないか、という推理です。

語り手を待っているまだ形にならない物語というもの、それが、世の中には漂っているのです。どこか見えない次元に、人々の「念」の塊りがただよっていてそれらはくっついたり離れたりしながら原始の海のコアセルベートみたいに存在しているんです。「念」の集合体に名前を付けふさわしい形に生まれさせてくれる人物が現れたとき、その人物は、その「念」の持つ物語の語り手として選ばれる。そんな風に私には思えるんです。そして「念」自体は物語になったときに、昇天するんじゃないか、と。

物語に選ばれる資質を持つ者が、まんがを描くことができる。まんが家はシャーマンだ、というのはそういうことなんです。

そして、1980年代までの少女マンガの作家たちこそ、最高の時代の巫女たちだったのではないか、と。そう思うわけです。




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