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社会は人の認知を超えて

昨日のnoteでタイトルに”物語”とつけた時に、最近は「物語」という言葉を使うことがよくあると気づいた。

例えば昨日の話で言えば、サディの手から離れて動き出すコミュニティや、そこからさらに生まれでてくるプロジェクトといった時の流れと成長あるいは変遷を俯瞰的に書きたかったから、話しの流れがある形でまとめた。

雑談などするときには、思い出しながら話すこともあり、物事を時系列のなかで起伏をつけて話すことは多い。物語の形にしてコミュニケーションに使うことを「ナラティヴ」と言うこともある。

ちなみに「ナラティヴ」という言葉については、ネットを探して、ボストンカレッジ教授の KC・リースマンという方の定義を見つけた。


*ナラティヴの定義*
1. 特徴的な〈構造〉を持つ。
2. 〈時間の流れ〉と〈起こった出来事の報告〉を含む。
3. 語り手が聞き手に対して、出来事を〈再現〉してみせる(実際にあったのだと〈説得〉する)。
4. 聴衆の〈感情〉に働きかける。
5. 研究インタビューや治療的会話の中での〈長い語り〉である。
6. 〈ライフストーリー〉である。

出典:「ナラティヴ」の定義 | 宮坂道夫研究室 Michio Miyasaka Lab
http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/id-4/id-2/


「時間の流れがあり、構造的な起伏など型があり、人に根ざす」ということであろうか。

また、物語の型としては、様々なものが存在している。自分が知っているだけでも、「起承転結」や「序破急」、あるいはジョーゼフ・キャンベルの「英雄の旅」などもある。

(参考:「ジョーゼフ・キャンベル - Wikipedia」の神話論欄)


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「物事を単体ではなく全体を捉える」という見方は、最近多くなってきたと感じる。個人的な理解では、最近はビジネスの現場で語られることも多い、「デザイン思考(あるいは、その基となるデザインという行為)」の考え方なども、「全体を観察した上で最適な問題解決をする」という意味で全体を捉える話だ。

そして、自分がビジネスの場としているデータ分析、あるいはAIの世界でも機械学習による人の認知を超えた「高次元科学」について論が出ている。

ちなみに、この「高次元科学」についての記事を書いたのは、僕が世の中でもっとも頭が良いんじゃないかと思っている人の一人である、プリファードネットワークス社でCSO(最高戦略責任者)をしている 丸山宏さん だ。

ざっくりした理解になるが、従来の「仮説をもとに分解していき、小さく分けた単体で理解したことを重ね合わせれば全体が理解できる」という考え方に対して、「ブラックボックスでも全体を、全体として評価する」ことへの脱却について述べている。

それは、たとえば「感性」など言語化できない判断や、「行間」から情景を読み取る、といった営みと同様に見える。

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そして、考え方を変えるときに障害となっているのが、「ブラックボックス」ということだ。「そこに、命を預けられない」ということだ。

“人以外の”未知のものに命を預けられないという議論は、もっと前から出ている。例えば、そもそもこのnoteを書こうと思ったきっかけになった以下の記事だ。

AIの利用が、倫理の判断を超えられないことによって阻害されているということが書かれている。また、とはいえ問題になっている事象(複数の子供にぶつかるのを避けるために、運転者が崖に飛び込むのが正しいのか)は「人も判断するのが難しい」とも書いてある。

みんな「見る」技術は磨いても、「決める」ことができない。物語に身を委ね、デザイン思考の結果に従い、AIに信頼を置くことができない。

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さらに、これを個人の問題と捉えるのも旧来の考え方で、安全で安心な社会を作ることでみんなの許容度を上げていくと考えるのが新しい考え方なのかもしれない。

しかし、その新しい社会を作っていくには、人手などリソースが無限にいない中で、新しい考え方によって解決していかなければならない。

このあたりのニワトリが先か、卵が先かってことに帰着するのも、なんだか最近よくあることの様に思う。落ちはなし。


おわり。


#COMEMO #NIKKEI
#毎日出す 20191012 DAY20

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