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クラフトエヴィング商會『じつは、わたくし こういうものです』

気をつけな 気をつけな
妖怪にゃ 可愛い女の子もいるんだよ
(中山千夏「妖怪にご用心」より)

人はみかけによらぬもの。散歩しているときにふとすれ違った年配の男の人。電車の中でたまたま向かいの座席に座った年若い女性・・・ふだん私たちが出会う大半の人は自分と同じく市井の中で生きている、ありふれた人たちと思ってやりすごし、すみやかに忘却して日々が過ぎていきます。

しかし、世の中は知らないことで満ちている。さすがに実は妖怪だった!とまではいきませんが、普通のサラリーマンとしか見えない人が、これまで聞いたこともなかった職業に就いているということは十分にありえることです。

例えば本書を開いて最初に登場する人物は、スーツを身にまとった、特におかしなところのない初老の男性です。知り合いでもない限りどこかで目にしたぐらいでは印象に残ることはないでしょう。ところが彼の職業は、日中に月の光を売り歩く「月光密売人」なのです。注文を受けると「七里靴」なる靴を履き、あっというまに地球の裏側へ行き、月光を杯に映したまま持ってくるというのですから、驚きではないですか。本書にはこうした一風変わった職業に就いている人たちの肖像写真と本人による職業の解説が18人分収録されています。

チョッキのメニューだけが置かれていて、来店者が選んだチョッキに合わせた食事が運ばれてくる「チョッキ食堂」を営む夫婦。お客さんが過去、未来、現在の3人の自分に宛てて三色の巻紙に書いた手紙を本人に届ける「三色巻紙配達人」の女性。枯れた樹木に触れ、半年後に実る果実の数を数える「果実勘定士」として世界中を歩く男性など、ユニークとしかいいようがない職業が次々と登場しているのを読んでいると、自分も彼らに出会ってみたいものだと思わずにはいられません。冬の間だけ開館している<冬眠図書館>でシチュー当番をしている、なんて話を聞くと、本好きとしてはどこにあるのか探してみたくてたまらなくなります。

巻末には「じつは、わたくし本当はこういうものです」として、紹介している人物の職業・年齢・名前はすべて架空、フィクションであるとして、実際の名前と職業が改めて紹介されています。けれども、本当にそれが真実なのでしょうか?例えば「冷水塔主」の管理人として紹介されていた女性は、実際は作家の小川洋子さんでしたとあるのですが、さて、作家が正体と信じてよいのでしょうか?作家の肩書は世を忍ぶ仮の姿であり、「冷水塔主」管理人こそ小川洋子さんの真の姿かもと考える自由が本書の読者にはあります。なぜなら、あの国民的詩人と多くの人が認めている彼でさえもこう告白しているのですから―。

本当のことを云おうか
詩人のふりはしてるが
私は詩人ではない
(谷川俊太郎「鳥羽 1」より)

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