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未来の「フリーランス的」な世界

はじめに

こんにちは。ランサーズの曽根です。

コロナショックが世界を身の回りの環境を大きく変える中、例年にはない形での入社式や入学式を迎えた方も多いのではないでしょうか。

ランサーズでも初のリモート・オンラインでの入社式を開催しました。「変化の激しい・・・」なんていう枕詞さえも風化してしまうくらいの状況の中、前提条件がないことそのものが、激変の時代においてアドバンテージになってくる、(だから大いにチャレンジせよ)というような話をしました。

こんな状況下なので、普段考えないようなことも含めていろいろと妄想しているのですが、そんな中でふと思いついたのは、「インターネット的」な価値観が広がった現代において、「フリーランス的」なるものがますます重要になっていくのではないか、ということ。

思いっきり抽象的でわかりにくいですね笑

せっかくなので、新年度の始まるこのタイミングで、働き方について、いろんな価値観について、ここ最近思っていたことを、少し背伸びしたことも含めて書き連ねてみようかと思います。


「インターネット的」な世界での価値

「インターネット的」。最初にこの言葉を意識させられたのは、そのままのタイトルを持つ糸井重里さんの『インターネット的』という本です。インターネットが世界にどのようなインパクトを与えてきたのかを、インターネットがいかにして技術ではなく世界中の人々にとっての「思想」となってきたのかを、あらためて考えさせてくれます。

糸井重里さんによれば、「インターネット的」な世界とは、さまざまなものがリンクされていて、情報が簡単にシェアできて、そして価値観がフラット化した世界。初版が2001年なのでもう20年近く前の本ですけど、これほど僕たちが生きる世界を見通して本質的に語った著作もなかなかないと思います。

一方で、この1-2年感じているのは、インターネットがこれだけ広がった世界、「広いネットワークにおける大量の情報」が前提となる時代に、「狭いコミュニティでの深い体験」が相対的に価値を持つようになったということ。つまり、インターネット的なるものが浸透した世界において、情報やコミュニティの価値が問い直されているということ。

つい最近出版された宇野常寛さんの『遅いインターネット』にも刺激を受けました。映像の20世紀からネットワークの21世紀へ、工業社会から情報社会へ、モノからコトへ、他人の物語から自分の物語へ、メディアからプラットフォームへと世界の重心がシフトしていく中で、これからは「遅いインターネット」が重要になってくるということ。

世界中で大量の情報があふれ、その中には一定の比率でフェイクニュースも交じっている時代。何を信じてよいのかわからない。「インターネット的」な考え方が前提となっているからこそ、それぞれが信じられるものや情報・体験の価値が問い直されている気がします。


トランプとブレグジットがもたらした不安

そういう意味でも大きな画期となったのが、もうだいぶ前のことにも思えますが、2016年のトランプ勝利と英国のEU離脱の決定。

歴史的にみると、ユヴァル・ノア・ハラリさんが『21世紀の人類のための21の思考』でも書いているように、第二次世界大戦で全体主義・ファシズムが、ソビエト連邦崩壊で共産主義が、そしてトランプ&ブレグジットで自由主義・資本主義が、それぞれある種の破綻といえるものを経験してきたという文脈があります。

リベラルな思想を持った人たちを中心に、資本主義や民主主義に対して一定の「幻滅」が世界中に広がったことは否定できないと思います。僕自身もそう、ご多分にもれず、衝撃も受けたし、暗澹たる気持ちにもなりました。

当時いろいろな考えを発信されていた識者の方々の論考の中で、とてもしっくりきたのは、冨山和彦さん。長い歴史のグローバリズムとローカリズムの振り子の中で、ある種のローカリズムへのより戻しが起こっただけであるということ。資本主義や自由主義に代わる「青い鳥」はないということ。

たしかに、トランプ後も着実に世界は動いているし、あれから4年近く経って、次の米大統領選挙が半年後に控える中で、明確な次の答えが出ているわけでもない。

そうした状況を鑑みるに、思うのです。僕らはただ、ダイバーシティ(&インクルージョン)というものを大いにはき違えていただけではないか、と。本当のマジョリティをマイノリティと切り捨てて、直視できていなかっただけではないか、と。

グローバル化の大きなうねりの中で、「国家」というくくりでも、「民族」というくくりでも、「会社」というくくりでも、「家族」というくくりでも、「サードプレイス」的なくくりでも、人々が求めている気持ちのよいくくりを、再考しなければならないのではないか、と。


コロナショックを受けての働き方改革

さて、そんな中、今回起きたコロナショック。

ただでさえ、以前より分断化が進んだと感じる世界で、移動を制限され、外出の自粛要請を受け、世界での主要都市ではロックダウンも起きつつあり、景気や生活の先行きが不透明な中、さらなる不安があおられる状況となっていますね。

個人的にも、2007年に社会人になってから、2008年のリーマンショック、2011年の福島の原発事故、2016年のトランプ&ブレグジット、そして今回の2020年のコロナショックと、ある一定周期ごとにやってくる世界の大きなうねりに直面しているというような印象を持っています。

一人ひとりの働き方も、組織としてのあり方も、これから大きく変わっていかざるをえない。今回の件で、これまで在宅ワークをしたことのなかった人が自宅でリモートワークを経験したり、これまで在宅ワークをしていた人が子供の休校でそれができないようになったり。強制的な「働き方改革」が待ったなしで執行された、というような状況に近いのかもしれません。

生産性を向上させるためのデジタルトランスフォーメーションは引き続きンの課題として残りつつも、喫緊の問題として、リモートワークができる環境の構築、ルールやガイドラインの設計、そしてその運用と、矢継ぎ早に変革の意思決定を求められている経営者は多いのではないかと思います。

オフィス一つとってみても、仮に新しいルールでのリモート・ファーストな考え方をした瞬間に、固定費のかかる場所ではなく、組織のあり方を考えるうえでのコミュニティスペースとしての資産としてとらえなおす必要性を感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ランサーズで昨年の6月に展開した「採用やめよう」のキャンペーンの時にも思いましたが、既存の価値観を逆転させて、発想を転換した瞬間に、逆境を創造に変えるようなアイデアが生まれてくる。今回のコロナショックの件は、本質的にスマートな経営のあり方、働き方改革を再考するうえでのよいチャンスといえるのかもしれません。


1億総デザイン社会と「フリーランス的」な世界

ひるがえって、そこまで考えてみたときに、ふと思うのです。ランサーズにおいて、自分たちが日々ユーザーとして接して価値提供しているフリーランスとは、時代の最先端の課題に向き合っている存在なのではないか、と。

すでに述べたように、「インターネット的」なるものが一つの思想のプロトコルとして昇華されたように、「フリーランス的」なるものは、今後の未来の働き方を考えるうえで、大きなヒントを与えてくれるのではないか、と。

これまで、フリーランスを手放しで礼賛しているわけではない、雇用や正社員を否定しているわけではない、ということを色々な場で伝えてきたつもりなのですが、今あらためて、これを問い直してみたいな、と。

「フリーランス的」なるものとは何ぞや?という問いかけについて、今後の投稿で深掘りしたいと思っていますが、ひとまず思い浮かぶのは、自由と責任の両翼で成立するものであるということ、市場に直接向き合うということ、未来の自分から現在の自分へ問いかけるということ、"Be Your Own Boss"という考え方を持つということ、などなど。

たとえば、まさに先ほど紹介した『インターネット的』の糸井重里さんのコンセプトを、企業と個人の間の新しい関係性のあり方である『ALLIANCE』とのひもづけでとらえた篠田さんの整理なんかは、まさにこの「フリーランス的」を考える上でも示唆的だと感じています。

これらを自分自身の言葉に置き換えると、「1億総デザイン社会」ということなんですけど、あらためて、その文脈含めて、これまでさまざまなフリーランスの人々に触れ、実際にお話ししてきたことからのインサイトなどをあらためて考えていこうと思います。


おわりに

なんだか久々のnote投稿で、だいぶ文脈がとっちらかってかつ大それた話をしてしまいましたが、、まぁ、こういうのは勢いが大事ということで。

こんな状況だからこそ、皆さん、自分自身の働き方や組織のあり方を見つめなおすチャンスととらえて、少しでも前向きに考えていきましょう。

なんとなくの着想が消えないうちに、今後、働き方についていろいろな投稿をしていきたいと思いますので、ぜひ皆さん、ご意見をください!!

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