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『はちどり』「家」の呪縛 (解読)

『はちどり』 2018年
監督・脚本:キム・ボラ
製作:キム・ボラ、チョ・スア
撮影:カン・グクヒョン
編集:チョ・スア
音楽:マティア・スタニーシャ
キャスト:パク・ジフ、キム・セビョク、イ・スンヨン、チョン・インギ、パク・スヨン
上映時間:138min

あらすじ


1994年を生きる女子中学生のウニ。仕事で忙しい両親、ソウル大学を目指す兄、遊んでばかりの姉の誰もウニのことは気にしない。恋人は自分勝手に浮気するし、友達も自分だって同じだとしか言ってくれない。誰が自分の存在を大切にしてくれているのか分からなくなった時、塾に新任講師としてやってきたヨンジ先生がウニの話に耳を傾けてくれる。


サクッと感想


世間からも、小生の周りの映画オタク界隈からも悪い評判を聞かなかったため、安心して劇場に足を運んだわけだが、期待以上に繊細かつ堂々とした傑作に出会えて気持ちが良かった。
キム・ボラ監督は長編を撮るのは初めてだということだが、初監督作品というのは大抵小ぢんまりと人間の感情や関係だけを丁寧に追っていくか、作家性てんこ盛りで尖りまくった映画になるのに対し、彼女はある一家の家族関係から家父長制の問題に言及し、さらに当時の韓国社会全体にまで物語の範囲を広げようとしている。
その意思と、それを実現できた脚本の執筆能力は次の作品を大きく期待させてくれるだけのポテンシャルを秘めている。
韓国の映画業界が世界的にも盛り上がり始めている中で、こういう才能の持ち主が正確に評価され、予算やスタッフが集まるような仕組みが出来上がっていることは日本の映画業界もぜひ見習うべきだろう。
新人作家は放っておいても出てくるが、それを拾い上げる土壌ができていなければ話にならない。

映画を観ていて感じたのは、従来の韓国映画のイメージ(ジメっとしていて血なまぐさい笑)とは似ても似つかない空気感である。
彼女の映画に流れている空気は韓国のそれよりかは台湾ニューウェーブの方がイメージとしては近い(ホウ・シャオシェンよりかはエドワード・ヤンといったところだろうか)。
個人的には。ある程度被写体と距離をとった画が印象的に残っていて、テーブルの手前から部屋の奥にいるウニを捉えたロングショットは格別だった。
誰もいない家で、どうにもならない感情をどうにもならない動きで発散しようとするウニの姿は観客の記憶に強く残っているのではないだろうか?


じっくり解読(以下、ネタバレ含)


ポイント①「リコーダーのテスト」


村上春樹が短編『蛍』から長編『ノルウェイの森』を生んだように、『はちどり』にも基となった30minの短編映画が存在する。
『リコーダーのテスト』と題されたその短編映画はYouTubeで非公式にアップされており、自動翻訳をつければ(正確な翻訳がどうかは若干怪しいが)日本語字幕で観賞できる。
いつ消されるか分からないから、『はちどり』を面白いと感じた人はすぐに観ておこう。短編の主人公も同じくウニなのだが、大きく違うのは彼女がまだ小学生という点。
小学生だから『はちどり』のウニほど荒んだ表情はしないし、素直に母親に甘えたがるシーンも描かれている。
『リコーダーのテスト』は小学生のウニが周りの環境に左右されながらも、結局は自力でリコーダーのテストで上手く演奏するというプロットなのだが、そこで獲得されたであろう独立心みたいなものが『はちどり』のウニに繋がっていると思われる。
リコーダーを買ってほしいと父親に頼んでいた小学生のウニが、中学生になると万引きによってその欲を満たそうとしているのが分かりやすい変化だろう。

ポイント②「ファーストシーン」


ファーストシーンを覚えているだろうか?
優れたファーストシーンというのは、見返すとそのシーンだけで映画全体を語っているじゃないかと言えるほど意味が込められている。
ウニが団地のドアノブをガチャガチャと鳴らし、家にいるはずの母がカギを開けてくれないのに対して苛立つシーンだ。
しばらくインターホンを押し続けた後、上方を見上げると902の文字。
階段を昇るカットに変わり、(おそらく)一階上の部屋に向かうとすぐに母親がカギを開けてくれた。
『はちどり』がコメディなら、おっちょこちょいのお転婆娘ウニの人物描写のためのシーンにも見えるが、本作であれば到底そうだとは言えない。
これは小生の単なる推測であるが、このシーンは本編を通して描かれる家族間でのすれ違いを端的に表現していると考えられる(もちろん、普段からウニが家族からのストレスを感じていることも提示しているが)。
いくら家族に呼びかけようと、助けを求めようと、その方向が少しでもズレていれば誰も答えてくれない。
映画中ではウニのことを気にかけてくれない最低家族のようにも見えるが、実は助けるべきところでは少しだけ手を貸している(しこりの一連のエピソード、橋を観に行くエピソードなど)。
全力で子を守ろうとするほどではないにせよ、家族であるという関係性からは抜け出せないということ、切っても切れない呪いともいえる家族という存在は描かれているわけだ。
つまり、間違ったドアを叩けば誰もそこにはいないし、正しいドアを叩けばそこに家はあって家族がいるという事実はウニにとって不変の事実であるということが伝えられている。
それは救いのようでもあり、逃れられない「家」という呪縛でもある。
中盤くらいに、公園で佇む母親に何度呼びかけても母親が気づいてくれなかったシーンとも呼応している。

ポイント③「しこり」


映画の途中から突如としてウニの右耳下に現れた「しこり」だが、彼氏は触ったにもかかわらずその存在を確認できなかったのに対し、母親は気づいた。
この辺りも、結局赤の他人である彼氏と、他人ではあるが血(という名の呪い)で繋がっている家族との差が示されている。
しこりの多くは原因不明だが、それらはだいたいストレスが原因でしょうと診断されるから、ウニの場合もストレスによって生まれたしこりと判断して良いだろう。
ただ、重要なのはなぜウニにしこりができたのかよりも、物語上、なぜウニにしこりができなければならなかったのかということだが、小生は『はちどり』におけるしこりと『リコーダーのテスト』におけるリコーダーが同じ要素なのではないかと考えている。
リコーダーを演奏することによって周りとの関係が生じたことと、しこりができとことによって周りとの関係が生じたことは物語上、同義なのだと思う。
ちなみに、ウニのさらりとしたボブは印象的だが、彼女は多くのシーンで両耳をはっきりと露にしている。
ただ、手術後になると髪を下ろして耳を隠すシーンが登場していた。
どこで耳を出してどこで耳を隠していたかについて、一回の観賞だけでは小生の力不足のせいで追い切れなかったが、フレーム外から聞こえてくる音が劇中に多く登場したことと、ウニの耳の見え隠れしていることはどうしても無関係のようには思えない。
次に観るときはそのあたりに着目したい。

ポイント④「はちどり」


邦題は『はちどり』、原題は『House of Hummingbird』だが、本編には一切はちどりが登場しないのになぜ『はちどり』と名付けられたのか?
そもそもはちどりとはどんな鳥なのかを調べてみたところ、Wikipediaには以下のように記されていた。

「鳥類の中で最も体が小さいグループであり、体重は2〜20g程度である。
ホバリングできるが、それにはものすごい体力が必要。心拍数は1260回にまでのぼる。」

体が小さいのは子供であり、家族の中で最年少であるウニをそのまま表現するのにぴったりな特徴であるが、大事なのはホバリングができるけれど、体力を大量消費するところだろう。
彼女は周りの環境に振り回されながらも必死にそこに留まろうとしていた。
あくまで自分の居場所を自分で守ろうとしているのだが、やはりそのためにはウニは必死にならざるを得ず膨大な体力を消費していることは明らかだ。
「はちどり」である必然性までは説明できていないが、ある程度はちどりの特徴とウニが置かれている状況は一致していると言える。

最後に


家父長制を痛烈に批判し、見るからに嫌な崩壊した家族を描いているが、そこにはやはり子供にとっては呪いとして逃れられない「家族」が存在している。
彼氏と別れ、思いを寄せてくれていた後輩の女の子とも別れ、唯一親身になってくれた先生は知らぬ間に去ってしまった。
結局、彼ら彼女らは家族ではない他人に過ぎないという絶望にも思える。
でも家に帰れば嫌な家族はいつもそこにいる。
嫌でも嫌でもそこにいるのだ。

そんな金がありゃ映画館に映画を観に行って!