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『贖罪』贖罪とは絶対的孤独である

『贖罪』黒沢清
普通のテレビドラマでは絶対に見られない黒沢節が惜しみなく発揮された映画レベルに到達した稀有なドラマ。贖罪が新たな罪を生む連鎖。罪の連鎖は主人公・足立麻子をどこに連れていったのか?

特筆すべきはやはり日本を代表する映画監督である黒沢清の空間演出。一般的なテレビドラマでは絶対にそこまでは拘らないし発想さえない光の演出、小道具による空間設計が視聴者を唸らせる。WOWOWだからお金と時間をかけさせてくれる。月9のクオリティに慣れてしまっている人は(断じてディスりの含意はないのだが、その質の差に驚愕してほしい)ぜひ本作を観て、ただストーリーラインや役者の顔面偏差値を目で追うことを一度は忘れていただき、映像で語るということの本質を理解してもらいたい。いつも通りボーっと観ていては気づかないかもしれないが、目を凝らしてみれば黒沢清が施した魔術がありありと浮かんでくるはずだ。特に鋭い光と影の交差、画面内のあちこちでひっそりと揺れ動く小道具を意識してもらうと良いかもしれない。

黒沢監督は普段は映画畑の人間だけれど、たまにドラマも撮ったりする。若いころは学校の怪談の何話かを監督しているし、ちょうど先日NHKのBS8Kで『スパイの妻』という最新作が発表されたけれど、一応これもドラマという設定。10月に劇場公開するらしいから観に行くしかない。なんせ8Kテレビを持っている層と黒沢ファンの層が重なり合うとは到底思えないから、みんな劇場が初見なんだろうね。
まあドラマと映画の境界線なんてのは曖昧なもので、フランスの歴史ある映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の年代ベストでもデヴィッド・リンチの『ツインピークス』シリーズがよくランクインしてるから、そういうことだね。面白けりゃそれでいいんだ。


さて、この物語を考えるうえでやはり重要となるのはタイトルでもある『贖罪』という言葉。罪を贖うというテーマを内包しながら、えみりちゃん殺しを起点に5人の女性のオムニバス形式で話が進む。1~4話はえみりちゃんが殺される寸前まで一緒に遊んでいた4人の少女の未来形で語られる。だから4話まではえみりちゃん殺しが全ての始まりのように見えるし、贖罪というワードが修飾しているのは彼女たちであり、贖いの対象は彼女たちが犯人の顔を思い出せなかったことのように描かれる。だが、5話でちゃぶ台返しが起こり、全ての始まりはもう一つ昔の時間軸にあることがはっきりする。この事実が何を意味するかというと、彼女たちに贖いに妥当する罪は無かったということだ。犯人が5人の少女から無差別にえみりちゃんを選んだのだとすれば、5人の少女は対称的であり、誰が殺されてもおかしくなかったのにえみりだけが殺されたという点で、麻子は彼女たちに罪を負わせた。(ここの論理はかなり麻子の勝手なところがあるし、そこに納得できない人はお話全体が受け入れられないかもしれないが、そこは想像力で補うしかない。麻子の性格、子を殺された母親の気持ちを考慮して納得するしかない。ご都合主義という人もいるが、現実世界には到底信じられない思考をする人がうんざりするほど存在しているのだから、こんな人間はありえないと断ずるのは尚早だと私は思う)麻子との贖罪の約束を焼き付けた少女たちはそれぞれ15年後に事件を起こす。全員が身近な男を最終的に殺してしまうが、それはえみりを殺した犯人に対する疑似殺人であり、それぞれが殺人によって贖罪を成し遂げたと思い込んでいる。ただ、実際には5人の少女は対称的ではなく、区別されたうえでの殺人だったことからこの論理は最初から破綻しており、彼女たちの殺人は贖罪などではないことが視聴者には分かる。最初から彼女たちに負うべき罪は無かったのだから。でも彼女たちは真相をしることはなく、それぞれが贖罪を成し遂げられたという達成感のもとに残りの人生を過ごすだろう。
対して、麻子は唯一贖罪をできなかった人物になる。しかも、犯している罪は大学時代の明恵を自殺に追い込んだこと、明恵と(香川照之)の仲を引き裂いたこと、浮気、そして彼女たちに偽物の罪を負わせ人生を少なからず捻じ曲げたこと、ととても多い。彼女たちがそれぞれ疑似殺人によって偽の罪とはいえ清算したのに、麻子だけは(香川照之)を自分の手で殺すこともできず贖罪の方法さえ分からなくなった。その意味での最後の霧が立ち込める中での歩くシーンなのだろう。贖罪の方法を見失い、自分がどこにいてどこに行くべきかも分からなくなってしまった麻子を映画的な空間演出で鮮やかに映したシーンだ。

罪によって罪を償うという形の贖罪を描くことで、罪の連鎖、償いの意味を問うこの物語が辿り着いた答えとは何か。
それはやはり贖罪と負の感情は混ぜるな危険ということだ。『贖罪』というタイトルでありながら、本当の贖罪を成し遂げた人は誰一人としていない。唯一近い行為を成し遂げたのは青木だけである。つまり、犠牲者がすでにこの世を去っている場合には贖罪は自己完結するしかないということだ。青木は最後に自分の命を絶つことで、最も贖罪に近いところまでは辿り着いた。でも、それでも贖罪にはならない。本当の贖罪とは、罪を忘れず、報いを受けながらも自分の罪は自分が記憶に刻み込んでおくということに違いない。そこに赤の他人(犠牲者と無関係な人)が介入する余地はないし、助けを求めることもできない。なんとも救いのない答えのように思えるが、罪を犯すというのはそれだけ残酷な運命を自分に引き付けるということなのだ。麻子はこれから自分の中に罪を自己完結させることができるのか。もう、青木も明恵もえみりもこの世にはいない。取り残された彼女は孤独に生き、死ぬまで罪を忘れないことで贖罪を達成できるのだろう。『贖罪』は罪を贖うことの裏にある究極の孤独さを感じさせる、恐ろしくも真実の物語である。

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最近、特にSNSでは赤の他人が赤の他人を誹謗中傷することが当たり前になっている。芸能人が不倫したって無関係の一般人が訳の分からない誹謗中傷をする。お前は誰だという感じだが。人間を誰しも間違いを犯すし、その罪に関わるべきは公的機関を除いては罪を犯した人と被害者だけである。赤の他人が関わって負の感情をまき散らせば別の罪が生まれる可能性もある。無関係の我々にできるのは必要な時に罪を犯した人を赦し、受け入れることだけだ。

そんな金がありゃ映画館に映画を観に行って!