見出し画像

『ライク・サムワン・イン・ラブ』境界線が壊れるとき (解読)

『ライク・サムワン・イン・ラブ』 2012年
監督・脚本:アッバス・キアロスタミ
製作:堀越謙三
撮影:柳島克己
編集:バーマン・キアロスタミ
主題歌:エラ・フィッツジェラルド「Like Someone in Love」
キャスト:奥野匡、高梨臨、加瀬亮、でんでん
上映時間:109min

あらすじ


元大学教授のおじいさんと、デートクラブで働く女子大生、そして彼女の恋人。決して交わるはずのない彼らの人生が偶然にも重なった時、ぎりぎりの状態で保たれていた何かが崩壊し始める。

サクッと感想


小生が最も敬愛する映画監督の一人がアッバス・キアロスタミである。
最近TSUTAYAで代表作品の数々がリマスターバージョンで網羅されているから、誰でも簡単に鑑賞できる。
本作は、キアロスタミが初めて日本での撮影に挑戦した映画であり、当時クラウドファンディングで製作費の一部を集めた。
5万円以上の支援をした人は、なんと現場に招待してもらったうえでエキストラとして出演できるという豪華すぎる特典があったらしい。
正直、キアロスタミの現場を観られるなら余裕で5万くらい出せてしまうから、他の巨匠も日本で撮影するときはぜひ募ってほしいものだ。

本作の日本でのキャッチコピーは「84歳、かりそめの恋を夢見た」となっているから、一見成熟した恋愛映画を想像してしまうが、実のところこの映画はそんなところでは留まってはいない(もちろん恋愛においても重要なテーマがいくつも飛び出すが)。
もっとメタ的なフィクションとリアル、映画と現実、偽物と本物の境界線を探っていく映画となっている。
物語上、表面的にそのようなメタ的な視点を描いてしまうとどうしても前衛的な映画になってしまうから、恋愛映画という一般的な映画のテーマを装い、裏ではじっくりとメタ的な視点を発展させている。
ただの恋愛映画として観てしまうと、最後のシーンはただ単に彼が怖い人ってのは分かるけどここで終わっちゃうの?と文字通り頭に?が浮かんでしまうであろう。
以下の考察では物語の要素は一切廃し、メタ的な視点のみを取り扱ってこの映画を解読していこうと思う。

じっくり解読(以下、ネタバレ)


以下の内容は、あくまで小生の個人的解釈に過ぎない。
映画に映っていることに忠実に、ときにおせっかいな想像力を働かせながら、映画が何を伝えようとしているかについて語った文章である。
映画の解釈は多種多様、誰がどんな解釈をしたって、誰がそれを批判できようか。
この文章が、一本の映画の深遠まで潜っていく皆様のための、一つの足掛かりとなることを願う。

ポイント①「場所」


『ライク・サムワン・イン・ラブ』のメタ的視点を考えるうえで、まず重要な視点はキャラクターたちがいる場所である。
物語が展開する場所はそれほど多くない。
最初アキコ(高梨臨)がノリアキ(加瀬亮)と話しているバー、客の元へ向かうタクシー、客であるタカシ(奥野匡)の家、タカシの車、ほとんどのシーンはこういった外と内の境界をはっきり区別できる場所に限定されている。
同じ場所でひたすら話し続ける形式で話が進んでいくため、ショットの種類もひとつひとつのシーンでは限られているのだが、必ず内と外が意識できるように窓やガラス越しのショットが含まれている。
ヌーヴェル・ヴァーグのように街に繰り出して歩き回るようなシーンはこれっぽちもなく、徹底して何かに引きこもっている登場人物達が描かれる。
外を意識させる工夫としては、フレームの外部からの声を積極的に取り入れているという点がある。
タカシの部屋にはよく電話がかかってくるし(タカシはこの電話をまともに受け入れることはない)、ファーストショットではアキコが全く映されないまま、しかし彼女は電話で話し続ける。
ではなぜ、ここまで執拗に内と外を観客に意識させるような撮り方、シーン構成をしているのか?

ポイント②「境界線」


その答えを見つけるには、内と外の境界線が何を意味するか考える必要がある。
印象的なおばあちゃんのエピソードを思い出してほしい。
アキコは何度もかかってきているおばあちゃんからの電話に答えることなく、ずっと留守電しか聞いていない(ノリアキとの電話でも決して真実を話そうとはせず外界と正面から向き合おうとしていない)。
電話の後、タクシーの車窓から駅前でじっと立っているおばあちゃんを眺めるアキコだが、アキコは決しておばあちゃんに話しかけることはない。
ただ車に乗ったまま、つまり車窓という境界線を確実に保ったまま一方的におばあちゃんを見つめ続ける。
しかもアキコは(自分勝手にも)少し涙を流す。
この状況の、アキコとおばあちゃんの関係は何かに似ていないだろうか?
そう、まさにこの映画を観ている観客と映画の中の世界である。
観客はカメラという装置を通して、映画の中の登場人物達を一方的に見つめ続ける。
観客には見つめる自由もあり、見つめない自由もあるが、映画の中の人間からは見つめられない権利が剥奪されている。
カメラもまた車窓と同じように、映画の中の世界と現実の世界を隔てる境界線というわけだ。
先ほどアキコが自分勝手にも泣いたと書いたが、これは泣くくらいなら今すぐ車を降りて会いに行けよという小生の気持ちが込められている。
この批判的な感情は、すぐにそれを感じた観客に跳ね返ってくる。
映画を観て悲劇的な世界の現状に涙する人はいるが、果たしてその涙を流した何人もの人間の内、誰が世界のために動いただろうか?
そこに巨大で堅牢な境界線(それは車窓でありカメラでもある)が存在する限り、映画と現実はどこまでも別の世界であり交流は起こりえない。

ポイント③「フィクション=リアル」


全編を通して比喩的にフィクションとリアルの境界線をキアロスタミは描いたわけだが、彼はその境界線を甘んじて受け入れ、観客を甘やかすわけではない。
つまり、観客がその境界線によって映画を一方的に楽しみ、映画から守られている状態を最後の最後に大きく批判する。
家の外で暴れるノリアキ(ノリアキが暴れる様子をカメラが映すことはなく、あくまで声や音だけが外からフレーム内に飛び込んでくる)が投げた石によって今までずっと境界線の役割を担っていた窓は割れ、内と外の世界が繋がってしまったことを一瞬のラストシーンによってあからさまに表現している。
安全な位置で映画を観ていた観客を血みどろの映画の中の危険地帯に無理矢理引きずり込み、「フィクション=リアル」であることを押し付けるように見せつける。
この主張は既に『桜桃の味』の最終シーンでもやっているが、『ライク・サムワン・イン・ラブ』の方が圧倒的に分かりやすい分、あのガラスが割れる衝撃音とともに観客の精神をズタズタにする。
これまで娯楽として、慰安として楽しんできた映画の世界が現実の世界と変わらないことを受け入れざるを得ず、もう他人事では済まされなくなる。
フィクションとリアルが混じりだす瞬間がこのラストシーンには表れている。

そんな金がありゃ映画館に映画を観に行って!