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自他一如の日本語からみる中小企業の組織

日本語には、自分と相手を分けない言葉が多く存在する。
例えば「われ」。
言葉遣いの荒い人が「おい、われ!」と言うときの「われ」はYouの意味で使用し、「われは海の子・・・」という時は自分を指す。
「自分」という言葉もそう。
「そんなことは自分で考えて!」というときはYouを指し、「それは自分がやりました」というときは文字通り自分を指す。
「手前」もそう。
喧嘩中「てめー(手前)このやろー」というときはYouを指し、「手前どもが担当します」というときは自分を指す。

自分=あなた。あなた=自分。この感覚を当然のものとして日常会話の中で使用しているのが日本人である。

先日ある映画を見た。車の屋根に土足で乗り何名ものダンサーがドタバタと歌い、踊っている。当時話題になった人気の映画だった。しかし、私は気持ち良く見ることができなかった。それはなぜか。
「車がかわいそう」
車の気持ちへの勝手な共感が先行し、エンターテインメントとして割り切れず、心から楽しめなかったのだ。
机の上に足を乗せる行為に対する抵抗感もまた、多くの日本人が持ち合わせている感覚ではないかと思う。車の痛みを感じる。机の気持ちを慮る。
「自分が感じるように車も痛いだろう」
「自分が感じるように机も嫌だろう」
程度の差はあるとは言え
「他の人もこの感覚を持っているであろう」
と想像できることもまた不思議な感覚である。

人は言葉で思考する。
日本語にも表れている「自他共有」「自他一如」「自分と他人は同じ」の感覚の中にこそ日本人共通の情緒感、共同感覚があるように思う。

日本の組織を考えるとき、この共同感覚は無視できないものではないか。
その傾向は地方の中小企業ではその傾向が強い感じる。それは同じ背景(地域・風土等)を共有しているということも影響していると思う。
組織をシステムと捉えるのか、感覚を共有する共同体と捉えるのか、ロジックにより構築された組織の中で、取り残された一人一人の中の共同体感覚が寂しい声を上げている状況が起きているのではないか。





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