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へんてこで矛盾した「寂しさ」に関する命題

寂しさについて考えていた。そのきっかけはこの本だ。

私は、エラ・フランシス・サンダースさんの本が好きで、新刊が出るたびに買っていたのだが、今回は想像上にとてもシンプルな本だった。彼女のイラストと言葉と言葉でできている。
彼女は言葉を紡いでいて痛かったと言う。けれども絵を描いていて癒やされたと言う。
読んでいて特に好きなページがなんぼかあるのだが、中でも心の痛みについてもんやりと考えていた。

どんなときに痛みを感じるだろうか。
物理的に言うなら、転んだときや何かに体をぶつけたとき、傷口に水が入って染みたときなど…かなと思う。

では、心はどんなときに痛みを感じるだろうか。
ひどいことを言われたとき、争っているといったニュース、何かを奪われたとき、誰かが死んだという報告…さまざまにあると思う。

現時点での、私の答えだが、心の痛み(?)の正体は寂しさなのかな、と思っている。虚無感だったり焦燥感だったり無力感だったり怒りだったり。
どこか寂しいから派生して他の感情のようなものや行動が生まれる。誰かを傷つけるような言葉が出てきたり、何かを奪ってしまおうと思ったり、奪われてしまわないように武器を手に取ったり…そういうことが起きるんだと思う。

自分の中に「何か奪われたくないもの」を守りたいという気持ちがあって、「何か奪われたくないもの」を失ってしまうから寂しさを感じる。
まあ確かに、物理的に転んで血が出たりするけども、あれも自分の中から何かがなくなるような感覚なのかなとか。
痛いのも確かだけど。いや、実際痛いの方がでけえけど。

なんとかはモルヒネの何倍もの痛み止め効果がある、みたいなのがある(詳細と数値は忘れた※あとから書き直しているが、確かハグとキスだった)。
化学や論理的な思考では寂しさは埋まらない。確かに何かのアクションのあとに信号が走って、何かしらのホルモンが出るのだろうけれど、ハグやキスだけで解決することも多々ある。
(私は抱きまくらがないと寝れない人なのだが、毎晩モルヒネの何倍もの痛み止め効果を得ているのかもしれない)

更に思ったのは、寂しさは無理に埋めなくてもいいのかもしれないということだ。痛いのかもしれないけれど、「そっか痛いんだな」と思う程度でいい。
怖いのは「別に痛くない、まだ我慢できる」って思い込んでることだと思う。

何かで愛を昇華させる話を書いた気がするが、寂しさも同様、たぶん昇華できる気がしている。
愛にも先があるように、寂しさにもどこか遠くがある。悟りはなかなか開けなくて、きっと死ぬまで考え続けることなのだと思う。ゴールはない。

生きている限り変わっていくし完璧にはなれないと思う。人がぐちゃっと境目がなくなるくらい混ざらない限り、寂しさはなくならない。
ぐちゃって混じって自分じゃなくなるなら、私は自決を選ぶと思う。そのくらいそういうのは、私は怖い。

だから、全部埋めて完璧にしよう!!ってのがなんか違和感ある。そもそも完璧の定義とは?と思ってしまうから。その定義を満たせば完璧なの?って思ってしまうから。

穴だらけで構わないし、その虚無や寂しさがあるからこそその人なわけだし、人間らしく在れる。その虚無や寂しさも含めて愛したいと思わないのだろうか。
自分の寂しさを受け入れることで孤独になれるのかなあ。受け入れる=寂しさから卒業する…ではないからね。あくまでも同居してるような感じ。その点について述べるなら、私はまだまだだなあって思う。

「AだけどAじゃない」みたいなへんてこで矛盾した命題で世の中できてるのかなあと感じることが、最近は多い。


May the wind be ever at your back



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