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赤いノート

赤いノートに赤いペンで願い事を書くとその願い事がかなうらしい。
そんな話をスピリチュアル好きの知り合いから聴いた。

まさかそんなことがあるはずがない。わたしは高をくくっていた。
でも、その話は本当だった。

わたしはそのころ、ある男性に恋をしていた。お互いに好きなはずなのに、互いに好き避けをしているみたいな微妙な恋だった。

その人とはSNSのメッセンジャーで知り合った。
「なぜおまえがこんなところに居る?」

それが彼のメッセージの始まりだった。
「お会いしたことはないのですが」

「それでも、友達登録になっているよ」
「意味なく増やしていたのかもしれませんね」


「ああ、そうなの」
「実はね、バナナで歯がかけた」

「は?」
「バナナで歯が欠けた」

「どうやったら、バナナで歯がかけるのですか?」
わたしは笑いながらメッセージを書き込んだ。だが、次の瞬間笑った自分を後悔した。

「わたしは、末期がんです」
初めてメッセージを送られたその矢先に、末期がんだと告白されても、なんと返したらいいかわからない。

「おまけにアルコール依存でね」
「末期がんにお酒は良くないと思います」

「しってるよ」
「なにかほかに、気晴らしはないのですか?」


「話がしたい。手が不自由なので書き込みは不便だ」

「メッセンジャーで通話しますか?」
「ワンコールでわたしの電話にかけてください」

さらりとした会話に吸い込まれるように、わたしは彼に電話をかけた。
電話はおよそ八時間にわたった。

話の内容でわかったのは、彼が四十代で一人暮らしだということ、末期がんだが、病院に入院する気がないこと、

アルコール依存から抜け出せないまま一日の殆どを飲酒に費やしていること
本を読むのが好きで、特に太宰治が好きだということ、

太宰治の師匠の井伏鱒二の孫と友人で、井伏鱒二に生前あったことがあること
井伏鱒二に「お前は津島修二だ」と言われたことがあることなどという、
普通では考えられないような内容だった。

わたしも太宰は好きだった。
そのことを彼に言うと彼は嬉しそうに言った。

「太宰の小説の何が好き?暗唱できる?」
「暗唱はできませんけど」

「如是我聞はしっている?」
「高校のころ少し読んだだけで、如是我聞も題名だけ知っているだけで、そんなに詳しくはありません」

「なら、知っているとか、好きとかいうな」
彼は急に怒り出した。

よくわからない人だった。
その、よくわからないところに魅了されて、わたしはただ彼の話をずっと
聴き続けていた。


わたしが彼の話を聴き続けているうちに、彼はわたしのとある能力に気づいたようだ。

わたしは、共感能力に長けていて、波長が合う人間とはテレパシーで意思表示することが出来る。

彼はいきなりわたしにこういった。

「手を上げてみて」
「どちらの手?」

「どっちでもいい、今から俺が、お前がどっちの手を上げているか当てる」
わたしは左手を上げる。

「上げた?」
「上げた」

「左手」
「あたり」

「じゃあね、お前の座っている机の左側に本棚がある。そしてお前の部屋のカーテンの色は薄いグリーンだ。植物の模様が見える」

「うん、左手に文庫本の本棚があって、窓のカーテンは緑色のツタのもようだよ。すごいね」
わたしはおおげさに彼を誉めた。

「これくらい朝飯前」
彼の嬉しそうな笑顔がぱっと脳裏のスクリーンに浮かぶ。

「見えるのだよ、俺には」
ああ見える人なのだ、とわたしは思う。見える人にはなかなか出会えない。
もしかしたら、なかま かな?と感じる。

「お前もやってみる?」
「はい」

「じゃあ、腕を上げるよ。どっちの腕をあげている?」
「右。それで、掌をグーにしている」
「ほう。グーがわかった?」

「うん」
「今度は?」

「また右手を上げている。掌はチョキ」
「わかるのか?」

「わかりますよ」
「どんな具合にわかるのだ?」

「あなたの顔が見えて、あなたは眼を閉じていて、考えている。グーにしようか、パーにしようか。でもチョキにする、わたしをからかっているみたい」

「よくわかるな」
「あのね」

「今までそういうことを話したのはあなたが初めてです」
「そう。どうして?」

「気味わるがられるから。小学校のころ、些細な事ですけど運動会のとき、
徒競走にでて二位になった友達が

『まあ、二位でもしかたないよね、あいては一番早い〇〇ちゃんだったからね、二位でもいいや』

と言った時に、わたしは、『でも本当はくやしくて、○○ちゃんのこと憎たらしいと思っているよね』」

と、何気なく言っちゃったのです。ビンゴでした。突然友達の顔色が変わって、
「そういう、ただの思い込みで人のこと悪くいうのはよくないよ」
と言われて、それから仲間外れにされちゃいました。

「ありがち、だな」
「ありがち、でしょ」


「おれなんか、そういうことばかりで、小学校の頃は嫌われ者だったよ。
だいたい、冬でもはだしで短パン、Tシャツってどうかとおもうでしょ?

俺の家は、まあ本当の家族じゃなくて俺は叔父に引き取られたよその子だった。下に叔母の本当の子どもが居て、弟になっている。

叔母はわたしの母と親戚関係だったけれども、実の母はとても美しくて才能にあふれた人だったから、叔母は母に嫉妬して、その母親にうり二つの俺のことは憎んでいた。だから放置状態で、洋服とか買ってもらえなくてね。

卒業式の時に担任の先生から、お母さん、晃教くんに、靴と卒業式用の服を買ってください、と言ってもらってそれではだしを卒業したくらいだから」

「そうなんですか」
「勉強する環境はそろっていたよ。芦屋の金持ちの家だったから。敷地が広くて
敷地内に森があったし、家には図書館があって、プールもあった。

風呂場にはサウナもあった。で、その風呂を掃除するのは俺の役目。
それも、ここは銭湯ですか?っていうくらい広い風呂だったから、

掃除をするのが大変だった。その時のトラウマでそれ以来風呂に入るのが嫌いになった。
シャワーくらいは平気だけど」

「桁外れですね」
「桁外れだよ。桁外れで俺の人生は狂った。俺は普通に憧れていたんだ」

ややあって彼は話を変えた。

「お前はなにかしたいことがないの?仕事は何をしている?」
「自営でオンラインカウンセリングをやっています」

「臨床心理士の資格があるの?どこの大学をでた?」
「大学は出ていませんが、一般社団法人のカウンセラーの資格を持っています」

「嘘つきだな」
「は?」

「そんな、金さえ払えば手に入る資格で、先生と呼ばれたいだけの詐欺師だ」
「一応、心理学とか学びましたけど」

「心理学の何をまなんだ?」
「ロジャース学派の傾聴を学びました」

「は?傾聴って、お前は傾聴なんかできてないだろう?」
「傾聴の意味がわかります?」

「誰に物を言っているのだ?俺はUSB、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で、一年で心理学のバチャラーの資格をとったぞ。その俺に高卒の頭の悪いお前に傾聴がどうのとか説教されたくは、ない」

「別に今傾聴しているわけではありませんよ、今わたしはあなたと『会話』していますから」

「会話、にすらなっていない」
「そうでしょうね、わたしはあなたに何もお話ししていませんから。あなたのお話しを聴いているだけですから」

「生意気だな」
「あなたこそ、なんですか?今何時だとおもっていますか?あなたともう八時間もこうして電話していますよ。午前二時になります。そろそろ寝たいので電話を切りますよ」

「なぜ、電話を切る?わたしはまだ話すことがある」
「何の話ですか」

「いちいちお前にこれから何々について話しますよと、報告しなきゃいけないのか?」
「報告は要りませんけど、わたし寝たいんです」


「なぜ寝る必要がある?わたしは三日、つまり72時間起きていても平気だぞ」
「それはあなたの勝手です。切りますよ」

わたしは電話を切った。散々な言われ方をして、腹立たしいはずなのに、彼の話を聴き遂げたような気がして、すがすがしい満足感さえ味わった。


彼からは、他にもさまざまな話を聴いていたはずなのに、時がたつうちに記憶は薄れていく。記憶が薄れるということはその人の存在が薄れていくことだ。

彼とは一年三か月、電話と見舞いで繋がっていた。
彼は、都内から500キロ離れた関西地方に住んでいた。阪急梅田から30分ほどの最寄り駅からさらにバスで30分かかる田舎町だ。

なぜそんな田舎町に彼が住んでいたのかは、時がくるまで誰にも話すわけにはいかない。彼は秘密が多い人だった。存在そのものが、日の当たる場所を求めてはいけない、そんな仕事に彼は携わっていた。

彼は仕事とプライベートで海外によく出かけていた。
国内もくまなく渡り歩いていた。

あろうことか、宇宙船に乗ったこともある、と言っていた。普通の人間なら
彼の言葉はアルコール依存の精神異常だと考えるだろう。

わたしもできれば、彼がそういう人であったら良い、と常々思っていた。
精神に異常をきたしているなら、まともに好きになっても仕方がない。まともに好きになれない人なら、心を支配される必要がない。

そう思っていた。しかし、それもまた違うとわたしは最近では思う。
好き、は支配ではない。その人を思うと、ただどうしようもなく感情が動いてしまうこと。それが好き、の正体だ。

それまで石のように固かったわたしの魂が、赤いゼリーのようにふるふると揺れる。その芯はマグマのように熱い熱情を放っているが、表面は冷やし固めたゼリーのひんやり感そのものだ。

好きになる、ということは条件ではない。魂の深い部分から揺さぶりを掛けられて、表層の好き、嫌いとは、まるでかけ離れた静かな場所でただ一人の人を思い続けてしまう、そういうことだ。
それが、好きで、愛しているという言葉の意味なのだ、とわたしは気づく。

彼が亡くなってから、わたしはこの世とあの世の区別がつかなくなっている。
彼はなくなっているのに、彼の気配だけがわたしの背中をゆったりと押し包んでいる。

彼が亡くなったとき、わたしは彼と連絡を絶っていた。彼のわがままな性格は時にわたしを落ち込ませ、傷つかせ、体力を消耗させた。

連絡を絶って、十日ばかりしたころ、彼の気配がわたしを静かに押し包むのをテレパシーで感じ始めた。彼はわたしが連絡を絶っているのを怒ってはいないようだった。

その証拠に、背中がとても暖かい。父性という大きな愛に包まれたような安堵感をわたしは感じていた。

彼のことは好きだった。誰よりも好きだった。
その証拠に、彼が昔話でよく付き合っていた彼女のことを思い出している時、
わたしは激しい嫉妬を覚えた。

その筆頭は靖子という女性だ。
旧財閥系のお嬢様で、母親はやんごとなき人ともゆかりのあるお嬢様育ち、父はその婿養子で東大出、彼女も東大の大学院を出ていた。

「靖子はスーパーお嬢様で、彼女に一千万のダイヤのピンキーリングを買わせたことがある」
というエピソードを何度聞かされたことか。

「で、そのダイヤは今もあるの?」
「六甲山のケーブルカーの下に落とした」

「あら、それは残念ね」
ざま見ろ、と思った。縁のない女のプレゼントは淘汰されるのだ。

実はわたしは嫌な女である。自分を嫌な女を認めてしまうと、こんどは逆に
そこまでして彼を思うけなげなわたし、に脳が勝手に変換してくれる。
嫌な事実は実は認めたもの勝ちだ。

その嫌な事実を認められるはずのわたしが、彼が亡くなったことだけはいまだに認められずにいた。

彼の死を、わたしは彼の母親の手紙で知った。

いつものように、一か月くらい連絡をしなければ、彼のほうから忘れたように
電話をくれるのに、その時は、三か月近くなっても連絡が来なかった。

亡くなる二週間前にわたしは彼を見舞い、病院に入院する、しないでもめたことがあった。

わたしは彼と一緒に居たかった。
一緒に居て、彼の辛さを分け合うためだけに、食事の世話と添い寝をするためだけに何度も関西の彼の部屋に出向いた。

それはただ、純粋にそうしたいとおもってしたことだった。
そのたび、彼はわがままになっていった。

そのことにいたたまれなくなったわたしは、家には行ったものの、大抵は泣く泣く東京に戻る羽目になっていたのだ。

「もう、しらない」
そう思った。彼は一人暮らしだが、時折母親が彼の身の回りを、といっても
ゴミを運び出すだけだが、世話するために彼の部屋を訪っていたのをわたしは知っていた。

結婚しているわけではないから、これ以上彼の身辺に深入りするのはかえって失礼なのではないか、という常識がわたしの自由意思を縛った。

今になると思う。わたしはもっと彼に対して、わがままになってよかったのだ。
わたしは、もっと彼のそばに居て、彼の忌の際までくっついていればよかったのだ。

『晃教は奈々未さんに感謝していると思います。あの子はもうがんの痛みも、
お酒で泣くこともなくなりました』

彼の母親の手紙はそのような内容だった。

わたしはふっと力が抜けた。
そして思い出した。去年の十月に彼の家を訪った日のことを。

彼の家に着いたのは午後四時過ぎだった。
いつもは、夜行の高速バスで池袋のバスターミナルから梅田のモータープールまで乗車し、その後阪急の梅田駅から兵庫県の最寄り駅まで行き、そこからタクシーに乗り換えて、彼の許へたどり着くのだが、その時は違った。

彼はわたしに甘えるように、今から新幹線で来い、新幹線代は出してやるから。
と言ったのだ。

新大阪に到着して、彼に電話をすると、そのままタクシーで家までくるように、と言われた。

言われるままにタクシーで彼の家まで行き、いつも開け放したままの彼の自宅の玄関先にたどりつく。玄関先の生け垣の金木犀の香りが鼻をくすぐった。
ふっと、甘い気持ちが広がる。

「来てくれたな」と
子どもが母親の不在を耐え忍んで、待ち侘びていたかのような笑顔で、わたしを迎えてくれた。

「夏のころよりやせちゃったね」
「もう二週間、食べ物を口にしていない。水とお酒だけで生き延びていた」

泣くような笑うような顔で、彼は布団から起き、わたしを見上げた。
そのときわたしは不覚にも「可愛らしすぎる」と思ってしまった。

涙が出そうだった。こんなふうに人から自分の不在を悲しんでもらえるなんて、わたしの人生ではそうあるものではなかった。

わたしは、家庭に恵まれていなかった。母親から疎まれ、幼いころは児童養護施設で過ごしていた時期もあった。

それは母がわたしを感情的に受け入れられず、ネグレクトで育ったため、見かねて小学校の教師が児相にかけあい引き取ってもらったからである。

もっとも、母親はすぐにわたしを引き取りにいき、その後は母方の伯母のもとで
そだててもらったのだが。

伯母のところも居心地のいい場所とはいいがたかった。わたしは高校だけは出してもらい、高校を卒業すると、伯母に10万だけ都合してもらい、家をでて、
中野区の安アパートに引っ越し、そこで仕事をみつけて働いた。

愛という感情がどういうものかわからなかった。
ただ、いつもなにか満たされないような、自分には人と違う何かがかけているような、そんな居心地の悪さだけを抱えて生きていた。

もちろん、そのようなぐあいだから、恋愛などというものはよくわからず、
片手で数えられるだけの男の人と、長くて一年、短くて一か月、というような恋愛ごっこしかした経験がないのだ。

仕方がない。その言葉がわたしの根底にいつも巣食っていた。

「お前はなぜ大学に行かなかった?大学にさえ行っていたら、俺のつてでどこにでも紹介できたのに。心理学の教室だって大学院の推薦状を出してやれたんだぞ。おれはそれだけが惜しいと思っている。奈々未、俺はもうそんなに長くないからな」

その夜、いつものように時間を忘れて話し込むうちに、彼がそう言って
わたしの顔をじっと見つめた。

わたしは変にどきどきして上目使いになった。
「上目遣いはやめろ。まっすぐに俺を見ろ、そして唇をまっすぐにして口角を上げてみろ」

わたしは彼の言うとおりにした。
「目だ。目は心の窓というのだ。もっと何かに集中して、我を忘れるくらい没頭できる何かを、お前が見つけられたら、お前はきっといい人生を送れる」

「はい」
「奈々未、俺はお前でいいと思った」

「お前でいいって、何がいいんですか?」
「お前と結婚してもいいなって思ったんだよ」

「そうですか、でもそれは嫌です」

「どうして」
彼の目が一瞬で寂しく曇った。

「わたしは顔の整った人は苦手です。どうしても向き合えないです。恥ずかしくて」
「お前なあ、俺が結婚してやってもいいっていいっているんだぞ。他の女なら喜んで食いついてくるのに、変な奴だな」

「もちろん、あなたのことは嫌いではありません。ただ」
「ただ、なんだ、言ってみろ」

「好きになりすぎました。好きになりすぎて辛いんです」
「お前はあほか」

「あほですよね、ごめんなさい」
「簡単に謝るな」
「どうしたらいいですか」

「俺にきくな」
「晃教さんのことが大好きです。でも晃教さんは、ダイスキなんて、他の女の人から言われ慣れていると思って。簡単にダイスキだなんて言えません。言っちゃったけど」

「馬鹿」
彼は困惑を隠さなかった。

「お前はなあ、もっとオープンに自分の心をさらけ出せよ」
「さらけ出しました。これが精いっぱいです」

「なんかもっと、あっけらかん、とさ、晃ちゃんだいすきーとかさ言えないの?」
「それが言えたら苦労しません」

「ああ、だよね。わかるような気がするわ」
「わかります?」


「言っとくけどな、俺はお前の頭の中身は全部わかっているんだぞ、それを忘れるな」
「確かに、あなたにはわたしの思考はダダ洩れです」

「そうよ。だから俺には隠し事しても無駄だ。好きならダイスキと飛び込んで来い」
そう言われて、涙腺が瓦解し、わたしは泣いた。

「なんで泣くんだ?」
「お父さんみたい」

「俺がお前のお父さん?」
「お父さんみたいに大きい愛情を感じる、という意味です」

「泣くな」
「泣かせてください」

「俺だって泣きたいことはたくさんあった」
「じゃあ、あなたも一緒に泣いてください」
「泣けない」

「なぜですか?男だって泣いてもいいんですよ。あなたは泣かなかったから、我慢強過ぎたから、これでもか、これでもかって試練が来るんですよ。

そうして動けなくなるんです。あなたはもっと泣いてよかったし、休んでもよかったんです」

「確かにね。奈々未のいうことはわかるけど、俺は泣いちゃいけないと思っていたんだ」
「なぜですか?」

「泣くということは、負けを認めることだから」
「負けたっていいんです。人生、勝ちばかり追い求めたら、伸び切ってやがてちぎれてしまいます」

「それが今の俺だよ」
「晃教さん…」と、わたし。

彼はうなずいた。
やおら、彼はこう言った。

「金木犀の香りがしないか?」
「生垣に。来た時から咲いがていました」

「わたしは金木犀が、好きなんだ」
「わたしもです」

「何か。なんだろう。あの匂いを嗅ぐと郷愁以上の何かを思い出さないか?」
「そう思います。懐かしくて苦しくなるような香りです」

「泣きたくなるな」
「そうですね。あの匂いを嗅ぐと涙腺が緩みます」

「お前も、そうなのか」
「はい」

そういう、わたしの顔を彼はじっと見つめた。時折、彼ははずかしくなるほど
じっとわたしをみつめることがある。そして彼は眼を閉じて、言った。

「疲れた。奈々未、寝ましょう」

「はい」
と言ってわたしは彼の布団の隣に寝袋を敷いて潜り込んだ。

彼は全身に痛みを抱えているので下手な添い寝で、彼の病む場所にわたしのからだが触れるのを、わたしは避けたかったのだ。

「もっと近くに来てもいいのに」
としばしば彼は言ってくれたが、もう一つの理由が、わたしのほうが必要以上の皮膚の接触が苦手だったせいもある。

「電気を消すよ」
リモコン操作で、かれは部屋のLED電気を消した。

暗闇に目が慣れると、闇の中目をつぶる彼の横顔が見えた。
起きて、気を張っている時とは違い、彼の寝顔は、幼い少年のような顔だった。

「この顔が本当の彼の顔だわ」
とわたしは思う。

話によく出てくる靖子は、この人と一番いい時を過ごしたかもしれない。
でも、今、この時、この瞬間、死にそうなこの人の隣に寝ているのはこの私なのだ。そう思うと、わたしは彼に不思議な縁を覚えた。

きっと、この人は生まれる前からわたしのことを知っている。そしてわたしも
この人のことを知っている。

海外に行って国内をめぐって、宇宙までこの人が行ったわけ、それはわたしを探していたからなのではないか?という気がしてならなかった。

暗闇に、この人が歩いた何本もの道が見え、海が見え、宇宙が見える。
きっと、この人とわたしは今シンクロしている。

きっと今ここ、が私たちの「永遠」という場所だ。
わたしはそう感じ、嬉しさで涙がでた。

今、この瞬間は死んでも忘れない。
きっと彼もそう思っている。

不思議な確信を覚えた。そしてそれが、わたしたちの『永遠』という場所のメルクマークとなった。

きっとあれが最後だったのだ。それから数回、わたしは彼の家に出向いたが、
まともな話はほとんどできなかった。

会うたびに彼はわがままになり、わたしを試すような言動を繰り返した。
それが死の影のせいだとは気がついていた。

最後のころの彼はアルコールで脳が溶けてしまったのではないかと思うほど
支離滅裂な会話しかできなくなっていた。

それでも、亡くなってしまうと、心残りだけがあった。
朝起きた瞬間から彼を思った。日中はなぜ電話が来ないのか、不思議に感じた。

テレビも見ず、ラジオも聴かず、部屋に電気もつけず、彼と同じように、
ウィスキーを買ってきて、ロックで飲んでみもした。
しかし、酔うということはなかった。

暫くやめていた煙草を吸いだした。いつの間にか煙草は彼と一緒にいたころよりも50円も値上がりしていた。

世の中は、自分の知らないうちに、いろいろと変化しているようだ。
お酒はどれだけ飲んでも酔うということはなかった。

だらだらと、お酒とたばこに酔いしれたまま、時を過ごし、ある一定の量を超えると、一挙に酔いが回って気絶する。

そんな毎日が五か月以上続いた。これ以上こんな生活が続いたら、彼のようになってしまう。

アルコール依存のこわさを目の当りにしていたわたしはそれだけは避けたいと思っていた。第一、亡くなった彼が一番悲しむ。

ふと、わたしは友達が言っていた、赤いノートに、赤いボールペンで願い事を書くとそれが現実化する、という話を思い出した。

そこで、毎日、『彼に会いたい。どうすれば彼に会えますか?教えてください、
大天使さま』と赤いノートに書き綴った。

それはもはや願い事のノートではなくなっていた。
わたしは赤いノートに、彼と会話しているかのように赤い文字で言葉を認める。
手紙でもなく、願い事でもなく、ただ、文字で彼と『会話』しているのだ。

今日はたくさん寝たよ、夢の中に出て来るってテレパで言っていたくせに、全然ビジュアル化してこない。

頭の中に言葉は飛び込んでくるんだから、わたしが見たいのはあなたの幽霊なのよ。

幽霊になって出て来てくれそうなのにどうして出て来てくれないのだろう? ねえ、どうして?どうして?今、ここに居るよって頭の中には響いてくるのに

どうして画像が来ないの?どこに行っちゃったの?体が亡くなって自由になったから、他の子のところにいっちゃったの?ほかの子には幽霊で出てあげたりしているの?

支離滅裂なことを書き綴っているなあと思うけれども、書くことで私は彼と繋がり、書くことで自分を癒しているのだ。
癒し。それが、今もっともわたしが必要としていることだった。

他の女性はきっと、美容院へ行ったり、エステや買い物や、女友達や彼と食事にいったり、飲みに行ったりして、心の癒しを得ているのだろうが、わたしにとっては、彼とつながること、それ以外は、何の意味もないことなのだ。

わたしは彼を喪って、はじめて彼に癒されていたことを知った。
あの声が聴きたい。お酒とたばこでかすれた、だけど海のそこからしんと響いてくるような、深い声に塗れたい。

「テレパじゃ、だめか?」
その時、彼の声が聴こえた。

「テレパじゃ、だめ。リアルなあなたの声と、リアルなあなたが見たい。あなたの不自由な右手に触れたい。あなたをハグしたい。あなたにハグされたい」

わたしは泣きながら赤いノートに書き綴った。

「ベランダに出てみな。月がでている。今日は満月だ」
頭の中に響く声に向かって、わたしはふらふらと立ち上がる。ワンルームの狭いマンションのベランダに続く窓をあける。

下町の電線が絡み合うマンションとマンションの壁の隙間に、白く冷たい
十月の月が見える。どこからか金木犀の香りが流れてくる。

「あの永遠の場所と同じ匂いがする」
わたしはマンションの五階のベランダから月を見上げる。

「わたしは今月の裏側にいる。そこは誰も行ったことのない世界、誰も見たことがない世界だ」
とあの人の声が聴こえる。

「月の裏側であなたは何をしているの?」
わたしは彼に尋ねる。

「今は言えない。あるミッションが下りてきて、わたしはそこにいる」
「ミッションって、なに?」
「今は言えない。だけど、お前がお前の人生を終えたら、その次の人生で私たちは逢う手はずになっている。わたしは次の人生のプログラミングを、仲間としている最中だ」

「次の人生にはわたしとあなたは逢えるの?」
「当たり前じゃないか。そのために今生でわたしたちは出あったんだ。わたしたちはツインレイだから」

「ツインレイってなに?」
「ツインレイ、ツインソウルともいうけれども、魂の双子のことだよ」

「魂の双子?」
「そうだ。わたしにはすぐにお前が魂の双子だということがわかった。わたしの居た、兵庫県からたった500キロメートル圏内にお前がいたとは」

「たった500キロメートルっていっても遠かったよ」
「お前にしてみれば遠いだろうな。世界を回り、アンドロメダ銀河まで宇宙船で行ってきたわたしにしてみれば、ほんの隣近所だ。見込みがあまかった。灯台下暗し、とはこのことだ」

「なぜ、もっと早く見つけてくれなかったの?」
「やることがありすぎた」

「やることって?」
「お前に話すには専門的過ぎる。だからお前にもっと知性があれば、とわたしがよく言っていただろう?」

「今のわたしのままではダメなの?」
「そんなことはない。わたしも亡くなってから、考えが多少は柔軟になったようだ。なにより、わたしはお前を守りたい。そしてわたしが人生で女性を守りたい、と真剣におもったのは、お前がはじめてなのだよ」

「今すぐあなたに会いたい」
「来るか?」

「うん」
わたしは白い満月に手を伸ばした。その時天空から、彼の手が差し伸べられた。

わたしの好きな筋張った男らしい手。
わたしはベランダの塀を乗り越えて、宙に浮かぶ彼の手と、あの懐かしいまなざしを追った。

わたしの体は宙を舞い、そして光のコクーンに包まれてゆっくりと階下に落下していく。わたしは笑っている。彼がこんなにもわたしを求めて来てくれる。

やがてわたしは永遠にたどりつくのだろう。
そして、悲しみも怒りも憎しみも諍いもない世界で、
安らいだ愛につつまれるのだ。

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