【コラム】南チロルの風:8
食から得たものと生まれるもの
毎月頂くお給料を毎週外食に当てることで、「食べる」こと以上に色々なことを感じることができたのも事実です。お客さんという立場からスタッフの立ち居振る舞い、ワインサービス、お皿の構成、お店の雰囲気を見て感じることができたのは大きな財産になったと思います。見栄えがきれいで絵のようなお皿に巡り会えたり、知らなかったワインが自分好みのものであったり、大衆的なトラットリアではまるでそこが自分の家かと思うくらいリラックスした雰囲気で食事を楽しめたこともありました。
しかしあるところでは汚いグラスが出されたり、お皿にたくさんの手垢がついていたりとそんなサービスをされたこともありました。良いことだけではなくよくなかったこともありましたが、「僕の働いているレストランでは出すお皿に気をつけよう、グラスは毎日きれいに磨こう」
と思い直すのでした。
「人の振り見て我が振り直せ」昔の人はいい言葉を言ったものです。
得た感動は自分の感性につなげます。自分が嫌だなと思ったことは他人にしないように心がける。このような感覚を21歳の時に感じさせてくれたのは、康一兄さんの影響がやはり大きかったと思います。それと同時に自分に投資することの大切さも実感しました。
一般生活にとって「食べる」ことは重要です。一週間のきつい仕事を終えてようやく訪れる休みに、その「食べる」楽しさ、「食べる」喜びを僕は見つけたと思います。「うわぁー、うっまそー」と声に出して、出てきた料理に鼻をあてて思い切り香りを楽しみ、まるでお皿を舐め廻したかのようにパンでソースをきれいに拭い、それを自慢げにカメリエーレに渡して、
「美味しかったよ。お皿きれいにしておいたからお代はなしで!」
なんて言って笑われてみる。今から考えればちょっとお行儀が悪いようにも思えます。そんな「食べる」至福の時間が増えれば、人間的豊かに仕事や私生活を送ることができるような気がするのです。
「食べる」ことを通じて感動を楽しんだら、今度はもてなす側としてお客さんにそれらを伝える努力をします。
「このお料理はこのようにして作られたものなんですよ。そしてこれとこれを一緒に食べてみたら美味しいですよ」
そうやってお客さんの素敵な笑顔を見ることも僕は至福だと感じています。
パニーノやファーストフードでお腹を満たすためだけに「食べる」のではなく、たまには心の豊かさを育むために外食を楽しむ。そこには食べるという素朴なことが素朴でなくなると思います。見方を変えれば何でも違うように見えるものです。僕はサービスとして働く人間の観点からレストランを見て楽しんでいましたが、どんな方でも同じように楽しめば喜びや感動を発見でき、それが記憶として残ると思います。美味しいものを食べられて、尚かつ記憶に残る。なんて素敵なことなのでしょう。
22回目の誕生日に康一兄さんと行ったミラノのサドレルも、そんな記憶を残してくれたレストランの一つです。ここでは料理・サービスという以前に衝撃的な出会いがあったのでした。職人気質で目がギラギラした熱いコックさん。そのお話はまた次回!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?