本が好き。
という言い方には二つの意味が含まれている。
と思う。
「モノ」としての「本」。
文字が印刷された紙が重なり、厚みが生まれ、それを束ねて「表紙」や「背」と呼ばれる部位ができ、装丁された「モノ」。
その存在そのものが好き、という意味での「本が好き」。
そして「読書が好き」という意味で使われる「本が好き」。
「読み物」としての「本」。
言葉が連なり、文章が生まれ、それを重ねて「段落」や「章」という区切りができ、まとめられた「物語」。
ボクは両者の「本」が好きだ。
他者に鼻高々に自慢できるほどの読書量や知識もないと自認しているけど、まぁ、それなりに本は読んでいる。
以前にも書いたかもしれないが、ある種の「睡眠導入剤」的な役割も担っている毎晩の読書。
常に何かしらを読んでいる。「活字中毒」というほどの依存はないが、たった1ページでも、いや、数行でも読まないと眠れない(ことが多いが、のび太並みに数秒で眠れることもなくはない)。
そして、物資としての本も好きなので、本棚に本がびっしりと並んでいる光景もワクワクする。
サンドウィッチマンの伊達ちゃん的に言えば「あ、本棚だ。なんか興奮してきたな」に近い感覚。
小説に限らず、写真集、画集、デザイン集、漫画、雑誌。
印刷された紙が束ねられた「モノ」が好き。
単純にびっしりと詰まった本棚や床に堆く積み上げられた本を眺めるのが好き。そんな環境で生活している人は賢そうに見えるし。
とは言え、自宅の限られた空間に所蔵できる本は無数には増やせない。
ここ数年、図書館を頻繁に利用する理由はそれに尽きるかもしれない。もちろん「無料」で読めるというのも大きな理由のひとつ。
それなりに税金を払っている身としては、行政に対して最大限の「見返り」を求めることは「卑しい」ことじゃないと思っている。
ちなみに「ふるさと納税」なるシステムには常々疑問を持っていて、縁もゆかりも無い自治体に納税して、やれ「越前ガニ2キロ返納」だの、やれ「松坂牛1キロ返納」だのに踊らされている人たちを「貧乏クセェな」と思っています。
それはさておき、
川上弘美さん「水声」。
川上弘美さん特有の「虚実まぜこぜ」になったような物語は以前から好きで、とは言え全作品を読破しているわけでもないし、新旧バラバラの順番で読んでいるので、この「水声」も、いつの作品で、どの作品の後に書かれたのかも知らない。その程度の知識で「川上弘美好き」と名乗って良いものかどうか、、、
ここで内容は書かないが、川上作品に一貫して存在している(とボクが感じている)「静謐さに秘めた内燃する感情のバランスの危うさ」が読み進めるごとに露呈していくのが堪らなかった。
父、亡き母、姉、弟。
それぞれの立場と感情の合致、もしくは離反。
よく「所詮、家族も個の集まりですから」などと簡単に物知り顔で嘯く社会学者どもに「とりあえずコレを読め、バカ野郎。」と言いたい。
「個」と「族」とは、そもそも何か。
同じ場所で寝食を共にさえすれば「族」となるのか?
血縁関係と言われる「血」とは、そもそも何か。
遺伝子学的に引き継がれる細胞さえ合致すれば「血縁関係」は築けるのか?
などと、ややこしく深く考えさせられる「問題作」です、とは言いません。
大袈裟な起承転結でドラマチックに展開するだけが「物語」ではなく、淡々と、でも日々の細かな起伏の連続が「物語」を作っていくんだな。
そこが川上作品の醍醐味だと、ボクは勝手に思っています。
追記
川上弘美さんのフニャフニャしたエッセイもボクは好きです。
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