必要悪としての学校のための教育

学校は生徒のためにあります。生徒を教育し、彼らがより良く育つことを目標にしています。
しかし同時に教師は「学校のために」生徒を教育する場合もあります。それが多少生徒の成長に繋がらない行為だとしても、行うことがあります。
学校のための教育というのは聞こえは悪いですが、そもそも学校が正常に機能しなければ元も子ありません。だから必要悪であるということです。

それがよくあらわれているのが制服問題だと思います。制服を着用することは(個人レベルでは)全く意味がありません。たかが服装でありそれでなんらかの成長に繋がるというのは詭弁です。
ただこういうことをいうと現職の先生の多くがお怒りになられます。ぼくは実際指導教員にこのようなことをいって(実際はもっとオブラートに包みましたが)、機嫌を大きく損ねてしまいました。

これは完全に邪推ですが、先生方も実は制服に個人を育てる意味がないことは自覚されているのではないかと思います。しかし制服は「学校の風紀」という点で大きな意味があります。それは自分の肌感でも強く感じていることです。学校の風紀が「良く」なりより生徒をコントロールしやすくすることで学校がより機能しやすくなり、ひいては生徒の学力の向上に繋がるというわけです。

かなり穿った言い方をすれば「先生側の都合で生徒に意味のわからないルールを押し付けている」と言うこともできます。それを十分に自覚していながらも、生徒が自由に服を着て来るようになる→学校の風紀が損なわれる→授業や生徒指導が大変になる、というリスクをとることはとてもできず、制服を強制する先生も実はジレンマに苛まれているのではないでしょうか。

ただ自分の意見としては、時々このリスクを大きく見すぎてしまうために生徒のための教育より過度に学校のための教育が優先されてしまっている現状が多くあるのではと考えています。学校のための教育は必要悪であるとし、最小限に抑える努力がされるべきだと思います。

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