「自分のほうがつらい」と抑圧してきた親は普通なのか

 僕はとんでもない田舎に生まれたから、よその家のことがわからない。同じ学校の友達の家に泊まりに行ったこともないし、近くに同学年の友達が住んでいなかったから親密な話をしたこともない。だから、自分の親が普通なのかがわからない。だから、ここでネットの海に問うてみたい。

 僕の両親のうち母親は、僕が子供のころ学校から帰ってきて「疲れた」だの「眠い」だのと言うと、「私のほうが疲れてる」「私のほうが眠い」と、子供の率直な考えを認めてくれなかった。いつも「自分のほうが」、と言葉を返してきた。確かに、結婚して別の家業の家にやってきて、ちゃんと家事もこなしてくれていた母親は、今考えたらとんでもなく体力を使っていたのだと思う。ただ、それに感謝した上でも、「疲れ」のような個々人の内面に拠るものの比較などできるのだろうか。

 母親は僕よりも早く起きて、朝ごはんを作ってくれて、高校生のときはちゃんとお弁当も作ってくれていた。そして仕事をした後、帰ってきたら僕を含めた家族に食事を作ってくれていた。改めて言うが、今こうして書き出したら本当に感謝しかない。だが、当時僕が感じていたのには違う感情もあった。

 高校生の頃に焦点を合わせて話を進めたい。僕は地域では最も頭の良い進学校に通っていた。たった一本しかない、学校に遅刻をしないためのバスに乗るため4時半に起きてそのバスに乗り、帰りも数少ないバスを頼って、大体晩ごはんの時間に帰宅。僕は僕で、田舎という生まれから来るどうしようもない困難に立ち向かい、「疲れていた」。高校進学当初は放課後に予備校にまで通い、帰ってきたら一人でご飯→風呂→寝るしかないような生活だったこともあった。

 それでも、僕が「疲れた」と言うと、必ず「私のほうが疲れてるよ」とずっと言われてきた。僕の気持ちを、「つらさ」という面においては一切理解をしてくれなかった親だった。疲れたな、と言っても「お疲れさま」と同意してはくれず、「私の方が疲れてるよ」の一点張り。他人のつらさなど誰も理解してくれない...それが家族でさえ...と、この時代に心に刻まれた。

 さて、ここでお聞きしたい。そうやって「子供より自分の方が疲れている」と主張・抑圧・マウントを取ってくる親というのは、広く一般の親の像なのでしょうか。僕は未婚で、まだ親というものになっていないからわからない。わからないからこそ、将来のために、この場で聞かせてほしい。

 この母親との話だが、実は社会人になっても続いた。僕が本気で好きだった彼女に振られた上、推していたバンドが解散して生きる意味を見失い、月に100時間を超える残業をしていた頃に届いた、母親からの一通のメール。

 『私の方が辛い人生だったから、あんたはまだ頑張れる』

 これほどまでに、心も身体もボロボロになっても、まだ自分の方が辛い人生だったと言う。100時間残業以外は両親は知っていたことなので、その上でこんな台詞を浴びせてくる。果たして、この考え方は一般的なのでしょうか。補足しておくと、僕の母親の母親は早世しており、父親のほうも僕が小さい頃に亡くなっている。「親の愛」とか、そういうものから考えると、「両親」が揃って育て上げられてきた僕より母親のほうが辛かったのかもしれない。でも、それは比較対象に挙げていいものなのだろうか。

 僕だって、振られた彼女のことは本気で愛していたし、推しの生存が生きる理由だった。その2つが無くなって、仕事に生きる意味を見出してしまっていた。就きたい業界には入ったものの、とてもじゃないが愛や推しが無い状態で耐えられず鬱病にまでなった。互いの生が置かれた状況から考えても、僕は、血縁であってもその生き方に優劣やマウントをとるべきではないと思う。人間が画一的な感性を持っているならまだしも、高校生の頃に「自分が、自分が」と言われてきた僕が本当に辛いときに、まだ「自分が」と言われたことに、激しい怒りと悲しみを覚えた。

 果たして、子供に「自分のほうがつらい」と反論する親は、一般的なのでしょうか。感性に拠る部分を、その感性の基準自体が違う他人と比べてどうのこうの言うのは、無意味なのではないでしょうか。そして、みなさんは、どう育てられたのでしょうか。

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