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パワハラの呪いの話

今振り返れば、かなり恵まれた人生だと思う。

田舎の出身だが、田舎の中では都会の方に一軒家があり、両親の仲はそれなりに良く、それなりに裕福な家庭で育った。祖母が裕福であったため金銭的な問題もなく、学費の高い芸大に入った。学費が払えず退学した同級生もいた。そんな中大して熱心にも学ばず卒業し、適当に車で20分ほどの中小企業にデザイナーとして就職した。会社の駐車場でカブトムシが獲れるほどの田舎であった。

まぁ、田舎の中小企業なので、当時どこも同じような感じなのかもしれないが、最初の2年は地獄のようだった。まさに男尊女卑の社会であり、新人の女は朝出勤するとまず社員全員のお茶を煎れ、下心丸出しの社長から『今日もがんばってね』と肩や腰をもまれ、月曜日にはデスクに配る用のお土産が無言でデスクに積まれていたような世界。

舐め腐った大学生活を経て就職した私の精神にも問題があったと思うが、あとから聞いた話小さな会社にも関わらずリスクの高い新卒を雇ったのは、既に在職していた仲の悪いお局2名の間を取り持つためだったそうだ。そんなのは誰がどう転んでも無理に決まっている。他の部署の部屋から離れた離れのプレハブの中に、お局A、私、お局Bという順にデスクが置かれ、お局Aへデザインチェックをお願いしたあとお局Bに見せると全く逆の指摘をされ、仕事はいつまでも終わらなかった。毎日お局Aとお局Bの大声での言い合いも私を挟んでおこなわれたし、お局Aと仲良く話をすると、お局Bには理不尽に怒られ、お局Bには話しかけづらくなった。居場所の無くなったお局Bは、部署をまとめる上長と不倫し始め、更にその上長から謎の権限を得て、私はパワハラ地獄へと落とされた。

『○○さん(私)の伸び代がまったく無い件について』と、大きくタイトルのついたパワーポイントの資料で、いかに私が役に立たないか、会社にとっての負担であるかを、お局Bから拘留室のような奥の倉庫に呼び出されて目の前でプレゼンされたのを今でも強烈に覚えている。あなたが残業なんて電気代の無駄(残業代は一切出なかったが。)、デザイン能力がない、コミュニケーション能力がない、人間としてダメ……ハラハラと涙を流す私を見て、『もっとあなたに言いたい文句があったのに、泣かれるともっとムカつく』と言われた。次の日からは挨拶は勿論、何を聞こうと無視されるか、仕事上どうしても口を利かなくてはいけない場面では『仕事なので仕方なく』とわざとらしく何度も言われた。会社に行くのが毎日苦痛で仕方がなかった。退職して何年も経った今でも、お局Bに似た芸能人をテレビで見ると、心がざわりとする。

今なら、そんな会社すぐに辞めて仕舞えばいいのにと簡単に思えるが、新卒で、且つ自信は根から折れ、私なんてクズはこの会社くらいでしか働かせてもらえないという圧力を受けて、ただただ耐えるしかなかった。

転職というのは、自分を売り込む作業だ。自分にはこういう能力があり、こんな実績があり、御社で役に立てます。…そんな言葉を並べていく。果たして、心が折れて実績もない新卒がそんな言葉を吐けるだろうか。

給与も当時手取り17万円、いくら残業しても残業代は出ず、仕事が終わらなくて会社に寝泊まりすることもあった。車がないと通勤できなかったので、多忙にも関わらず諸々税金や費用を支払うと手元には毎月2万円ほどしか自由に使えるお金は残らなかった。それでも、『でも、正社員だから』という概念に何故か安心していたのだと思う。

また、能力がないと判断されていたので、対した仕事も貰えなかった。仕事の割り振りをお局Bがおこなっていたために、貰えるのは誰でもできるようなデザインとは言えない仕事か、誰もが面倒だと思う作業だけ。私が運が良かったのは、ここでWEBと出会ったことである。

当時社内にシステムエンジニアは居たものの、フロントのWEBを扱える人間がおらず、かと言って田舎でもスマホもPCもあるためWEBデザインの仕事は舞い込んでくる。学習コストが高いために、誰もがやりたくなかった案件が私に落ちてきた。私にとっては、デザイナーとして就職したにも関わらずデザインの仕事はこの案件しかなかったし、それはもう物凄く勉強して成果を出した。1年後、元々グラフィックよりもWEBの方が向いていたこともあるが、デザインもコーディングも、社内の誰にも教わらずにある程度できるようになった。そこでWEBを必要とする別の部署に異動となり、私はあの常に空気の悪い3人部屋を出られることとなったのだった。

不思議なことに、部署異動が決まるとお局Bは上司に異議申し立てを行ったそうだ。あんなに文句言ってたのに。まさにDV加害者の話のようで、すぐ手元にサンドバッグを置いておきたかったのだと思う。

ここからは仕事の風向きが変わった。新しい上司は変な人であったが正当に評価してくれたし、周りがエンジニアばかりだったので、開発におけるノウハウを知ることができた。そのとき一緒に働いたエンジニアの1人が今の夫で、先に上京して転職していたため、結婚を機に私も上京することとなり退職した。

退職者は毎回、社員全員の前で謝辞を述べるのだが、私の時にはお局Bは顔を出さなかったという。


上京して転職したデザイン会社は、小さいながら大きな案件ばかりを扱う会社で、目の回るような忙しさではあったものの、扱ったデザインが世に出るインパクトが大きく、やりがいがあったし、人にも恵まれた。そこでは男性も女性も同等に扱われたし、飲み会で女性がビールを注ぎに席をまわることもなかったし、田舎にいたときには出会えなかったような、役職のある女性何人もと仕事を一緒にし価値観が変わった。

転職して1年後、業績を認められて私も役職にもつけたし、部下も何人か付けてもらった。キラキラとした新卒を部下に持った時、絶対にお局Bのようにはなりたく無いと思い、気を遣って教育したことを覚えている。私は、絶対に、あんなことはしない、と。

大きな仕事をしていると、地元の田舎にも関係するような案件も扱うことがある。私が作ったこのデザイン、お局Bも見ていたりして。買ったりして。私がこんな仕事ができるようになったなんて、思ってもみないだろうな。きっと腹立たしく思うだろう。…ふと、何かを達成したとき、いつも腹の底で湧き上がる、卑しい気持ちがあることに気がつく。

きっとお局Bは私のことなど、とうに忘れているだろう。当時は憎しみがあっただろうが、あの頃の泣いていた私への憎しみなど、とうに次のターゲットに移り、消えているだろう。

いつまでもいつまでも、あの頃の私とお局Bを忘れられないのは自分だ。

自分が何か成功するたび、私はきっとお局Bに対して黒い感情を思い出し、お局Bを忘れることはできないのだろう。なぜなら、あの頃の私も、今の私も、同じ人間なのだから。まるで呪いだ。

この話を人にすると、『その辛かった出来事もあなたを形成するもののひとつ』のような綺麗なお言葉をいただくことがあるが、そうできたら、そう納得できたならどれだけ幸せだろう。

あの異常な日々を、私を形成したもののひとつとして受容しなくてはいけないなんて。

この呪いはもしかしたら一生解けないのかもしれない。


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