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ルポ浅草 2024 其の一「家業は創業205年 大学生の半生と浅草への提言」


「浅草のまちづくり 隅田川活用など提言 東大生企画の勉強会」
 東京新聞ウェブ版タイトルが、図らずもデスクトップにリコメンドされてきた。
「東大生企画」の文言がひっかかって記事を開いたのは否めない。なぜ現役東大生が浅草なんかに焦点をあてたのか?しかも参加者は主に学生で60名とある。テーマからするとかなりの集客力に思える。

 記事の最後には、勉強会主催者のメールアドレスが記載されており、私はすぐさま連絡を取った。大学生とは思えない丁重な言葉遣いのメールに、学生起業家かなと思い込んでいた矢先だった。

「実は当方の実家も浅草にて200年ほど商売をさせて頂いております。」との返信。
 なるほど浅草原住民であれば、勉強会テーマを「浅草のまちづくり」にしたのはうなずける。しかしこれまた予想外の数字が出てきた。200年以上続いている商売とはー。京都ならまだしも、である。

 保田さんのお名前と創業200年で検索したら、すぐにその会社のウェブサイトが出てきた。江戸時代から続く、藍などの染料や染色道具を販売する会社であった。
 その後すぐお店見学に訪問した際、保田優太さんは、天然の藍で染めたという自然な色合いのジャケットをさらりと着こなし、見るからに育ちのよさが滲み出ていた。筆者の周囲にはいないタイプの浅草原住民だ。
 彼の流れるような説明で、お商売のことはたいへんよくわかった。一方、保田さん自身についての疑問は深まるばかりだった。
 何ゆえ東大に進学し、そして今浅草の勉強会なんて開催しているのだろう?保田さんに改めて取材を申し込んだ。
 戦後40年ほど活躍した浅草国際劇場の跡地にあるホテルのラウンジで話を聞くことになった。


巷でよく言う「東大生の親は勉強を強制しない」は本当

 保田さんは幼少時代、地図や歴史が好きだったので突出していたものの、他の科目の成績は普通だった、と謙遜しながら語る。加熱しつづける中学受験だが、特段苦労することもなく、中高一貫校である早稲田中学・高等学校に進学した。早稲田大学の付属校ではないが、推薦制度により、生徒の約半数は早稲田大学へ進学できるという学校。授業の質が高く、東大受験対策にも役立った。
 そこで保田さんは6年間サッカー部に所属していた。しかし「万年ベンチで全然だめ」だったという。
「さすがにこのまま卒業したらまずいんじゃないか」という思いから、勉強も頑張ろうと思った。高校3年生で部活を引退してからスイッチを切り替えたところ、すんなりと成績が上がっていき、東京大学も志望校の視野に入ったのだ。
 保田さんの根っからの腰の低さもあり、謙遜が入っているとはいえ、ここまでの人生で勉強に苦労した感じは受けなかった。もちろん親に勉強するよう強制されたことはないという。
 父親は仕事で休日も家にいないのが当たり前だったし、母親もいつも家にいたわけではない。のびのびと自分のやりたいこと、好きなことが自由にできる環境だった。家業の大変さが、子供にとっては、放任という形でよい影響を与えたのかもしれない。

「継がなくていい」息子の幸せを最優先する、浅草では珍しい家庭方針

 保田さんは祖父母や両親から、家業は「継がなくていいから自分の好きなように生きなさい」とずっと言われてきた。保田さんが想像するに、それだけ大変で苦労の多い商売だったからではないか。
 200年を超す家業の伝統を受け継ぐことを差し置いて、子供の意思を尊重し、幸せを願う。これが本来親ならば当たり前の感覚かもしれない。しかしこの事実に驚きを隠せなかったのは、筆者の浅草的観念の強さによるものだろう。

もはや保守的考えが一ミリも通用しない時代になっている

  保田さんの知人友人にも、実家が商売をしている家がある。染色に関わる原料や道具を作る職人さん、こんにゃく屋さん、料亭など。しかし家業を継がない選択をする人がほとんどだ。なぜなら国内マーケットは縮小していて、今後家業で生きていけない不安が大きいからではないか、と保田さんは考察している。だから「今のおじいちゃんとか自分の代で商売はやめる」というのをよく聞く。
 伝統を守れ、長男なのだから後を継げ、などと言える状況ではないことが、肌身に感じて明らかだ。

一年休学中に家業を手伝う決心をした 

 継がなくていいと言われて続けてきた保田さんだが、大学を1年休学している間、フルタイムで家業を手伝うことにした。どういう経緯なのだろう。
 
 東京大学に入学後、基礎的な一般教養を学ぶ1、2年生の間は、学生団体の共同代表も務め多忙を極めた。 現在日本の就職活動は、大学3年生から始まるのが一般的である。東大の同級生たちも世間と同じく、この頃に志望企業をしぼる。
「大学生活を2年間バシッとやったからって、自分の進路を決められるわけないんですよ!」
保田さんが話すトーンは常に穏やかで落ち着いていたが、ここで若干語気が強くなった。
「驚くべきことに、進路を決める際に、年収ランキングだったり、入るのにどれだけ難しいかという難易度ランキングだったりの順番で決める人も多い。そんな誰かが作ったランキングなんかで人生決めていいの?と思う。そんなことを言っても実際自分は進路を決められなくて、とりあえず一年間考える時間を延長しないと厳しい。」となった。

 休学中、今まで行ったことがなかった海外に行きたいと、インドを旅した。社会人や家族を持ったらなかなか行けない国、もともと仏教に興味があったことがインドを選んだ理由だ。
 世界遺産のアジャンター遺跡からの帰路、5時間のバスの中で急に「家業を手伝おう」という思いが不思議と湧き上がってきた。日本では経験しないような困難な思いをしたからだろうか。野犬に追いかけられたり、スリや危険な人物にからまれたりもした。

「せっかく入った東大を休学して、自分はなにをしているのだろう、もっと身近にできることがあるのではないか。」
 コロナ禍を経て、会社の経営環境が厳しくなっていたのも知っていた。そして帰国してすぐ、「会社で働かせてください」と父親に伝えた。

海外事業を一から立ち上げ

 会社では、電話番、掃除、商品梱包、配達から経理、事務など一通りのことを経験した。一方、Z世代の感性も使い、SNSで調査したところ、海外にも染色の需要があることがわかった。そこで海外通販事業を一から立ち上げ、軌道に乗せることができた。
 家業はもともと自分のやりたいことではなかったけれど、真剣に向き合ってみたらおもしろかった。休学中の経験で、なんでもやってみたらいいという指針ができた。

常に一番を目指し、それを勝ち取り続けた人生が生み出す思考

 一般的には東大生というだけで世間から成功者とみなされ、あがめられることも多い。そんな東大生の大半が歩む道に違和感を持ち、休学することで新たな人生観を得たように見える保田さん。では大半の東大生の行動原理、思考回路はどうなっているのだろう。保田さんはこのように見ている。
 
「東大生は、受験という競争社会を勝ち抜くため、ずっと一番を目指してきたという人が大半。だから常に世間的におお!と言われるところを目指しがち。就活もとりあえず一番のところにするか、となる。勝つことが価値。負けるのが怖いというのもあって、負けないことを習慣的、自動的に選択してしまうのだと思う。負ける可能性が少ないところにベットする。リスクは取らない。」

「だからこんにゃく屋さんをやってます、より〇〇商事、××銀行に入りました!のほうがかっこいいと思ってしまう。世間のイメージに左右されている。」

 日本で最高峰に優秀とされる人材が集まる東大でもこうなのだ。学歴社会を批判していかなければ、ますます日本社会は閉塞していくだろうと筆者は感じる。

生まれ育った土地に愛着を持ってほしいという思いから学生60名を集客

 何でもやってみようという行動指針から、保田さんは2023年11月に、浅草に関する勉強会を主催した。大学の教授や浅草の経営者に登壇してもらい、学生約60名をSNSと自らの足を使って集客した。
 さらりと説明されたが、実際にイベントを一人で企画し実行するには、大きなエネルギーが必要だ。新聞にも取り上げられていることからも、やり遂げた事の大きさは想像できる。そこまで彼を突き動かしたものはなんだったのか。
「東大生には一定数、学者・評論家気質の人もいて、口ばっかりじゃないかとうんざりすることがある。自分は絶対に言いっぱなしにはしたくない。」
 一部の同級生を反面教師としてある種反発し、行動力を発揮しているからこそ、莫大なエネルギーを生んでいるように見える。

「世界を見渡せば、故郷に愛着が強い人が多い一方、日本こと東京の人は、そうではない。東京の歴史や文化を知る機会がない人に来てもらうことで、自分たちの街に愛着を持つきっかけになればいい。」
 愛着が、ものごとを「自分ごと」として捉え、主体的に動く第一歩になるという考えだ。

保田さんが見ている浅草の課題

 最後に彼が今浅草をどう見ているか、特に課題について聞いてみた。
 「ミクロでは、お金が落ちていないこと。お金の集め方を、集客を増やすことでのみ解決してきた歴史がある。大きなハコモノで見せ場を作るなど、とにかく人を多く集めて回すやり方。お土産屋さんや飲食店が多いのでそれは当然のやり方だった。
 しかし昨今は観光客が増えすぎているという新たな問題もある。これからは集客を増やすだけではない、付加価値をつけ、高単価のものを売ることにスポットを当てるべき。」
 保田さんのお店でも、海外観光客の方に向けたワークショップを実施して、需要も増えている。
 口で言うだけなら誰でもできる。発言するなら自らやって実証したい。成功事例ができれば、「高単価にしないといけない、ということではなく、結局高単価にするとあなたの商売が儲かるんですよ」というメッセージになると考えている。
※ただし保田さんは高単価化について全面的に進めるのではなく、浅草を『(修学旅行生をはじめとした)若者にとっても訪れやすい街』として存在させ続けることも重要だと話されていた。

 「マクロでは、エリアごとの回遊性が低いこと。浅草寺の参道である仲見世は混みすぎだが、他のエリアには誘導できていない。なぜならエリアごとの独立性があまりにも高すぎるから。エリアを超えてお客さんを流すことに向き合わなければいけないのに、今ハンドルを握るのが区の観光課の方しかいない。民間サイドからも、エリアを超えて観光について取り組んでいく姿勢が求められていると思う。」

浅草はお花畑に染まるのか、新たな道を進むのか

 人手不足や経営環境の悪化により、保田さんの会社の同業者はこの20年で廃業していったお店が多いそうだ。「もう昔みたいないい時代は戻ってこないけれど、絶対につぶしてはいけない」という思いは強い。家業も浅草も、50年後も100年後も栄えていてほしい。
 会社からゴロゴロと出てくる、江戸時代の貴重な資料の重みを手に、あれだけ家族には「自由に生きなさい」と言われたが、産業の現状を知ってしまった今、「はいそうします」とは言えないと思った。

 今日も彼は東大に通い、伝統染色を研究している。そして英語で海外通販事業を取り仕切り、次回の浅草勉強会について筆者とチャットで会話している。
 
 「自分の利害は家族の利害と一致しているし、家や会社の利害はわりと浅草の利害と一致している。だから公共と自分の境があいまいなのかもしれませんね。」

 浅草のような超保守的な地域の人間は、「頭がお花畑」とくくられることが多い。しかし少数ではあるが、浅草原住民にはこんな若者もいて、浅草全体が変わることを追求している。 原住民の生態が変わりつつあることを明らかにすることで、日本社会、世界へ希望を投げかけられたら嬉しく思う。


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