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老人のエロティシズム

つくづく、俺はエロおやじになり下がったのか、と落胆していたら思わぬ救いの手が伸びてきた。
また詳しい説明が必要なようだ。
まず、何故自分をエロおやじと思ったかを説明する。

私がパートで勤めに出ている職場にKさんという女性がいる。
Kさんは正社員で事務所の内勤だが、パートの私とも仕事上で接触する機会が多い。
三十代半ばで独身だが、つい最近当地へ転勤してきた。
髪を後ろにきっちり結わえて、てきぱきと動く姿はいかにもキャリアウーマン風だが別にとっつきにくいわけでもなく、よく動く黒目がちな眼は女性としても十分魅力的である。
だけどそれ以上に色々と十分変わっている。
コーヒーも飲まない、お酒も飲まない、食べる時間は無駄な時間だと思ってるし、特に趣味はなく、人付き合いもそこそこにしてると言う。

「それじゃ、男の人はあなたを誘えないじゃないか」
とセクハラすれすれの言葉をKさんに投げかけてみるが、特に怒るわけでもなく、かわされてしまった。

ある日のこと。
パソコンの前で仕事をしているKさんが一息つくように、背伸びした時、ふと白い首筋にほくろがあるのが見えた。私の視線が一瞬止まった。頭の中で痺れたような感覚が残った。意外だった。近頃ではとんと忘れていた刺すような欲望の感情が湧いたのである。

「エロ?」

そうなると少し顔立ちの良さを間引いていると思っていた鼻のわきのほくろまでエロく見えてきた。

「おいおい、これはまずいぞ、化けの皮がはがされてしまう・・・」

言っておくが私は世間では爽やかキャラで通っている。
イメージは少し違うが、歳を取ってもサーフィンを続けている湘南ミドルエイジのように、人と会うと明るく声をかけ、年より臭くもなく、身動きもきびきびしている。

「○○さんって、本当にお若くてカッコイイですね、私の父とは大違い、○○さんのような人がお父さんだったらよかったのに」
と職場の若い女性にも言われるほどに。

それが今はきっと、世間一般のエロおやじの目つきをして、Kさんを見ているに違いない。

ただそれだけでは事はおさまらなかった。
また別の日。
今度はKさんが退社しようと私に挨拶し、沓脱場で靴を履いてた時に、若い頃そしらぬ素振りで女性の胸のふくらみを見ていた時と同じ感覚で、あの靴の匂いをこっそり嗅いでみたいと思ったのだ。

「おいおい、これはいよいよ、化けの皮が剝がれるどころか、既に変態仮面を付けているじゃないか」

別にいい歳してKさんに横恋慕とかそんな感情ではない。
私は自分のキャラ崩壊にすっかり落胆してしまったのだ。
「年取って枯れるどころか、変に屈折して、エロい」

そんな時思わぬ救いの手が入った。
今度はそれを説明しよう。

私はこれまで谷崎潤一郎という人の熱心な読み手ではなかった。
「今度は何を言い出したの?」
と、言わずにもう少し聞いて欲しい。

むしろ苦手なタイプの作家だったと思う。
もともとそれほど読書家ではないエセフェミニストである私は、同時代であれば武者小路実篤や志賀直哉を選んだし、「細雪」や「春琴抄」でも十分耽美的なのにましてや「痴人の愛」や「鍵」では田舎の青年には刺激的過ぎた。
これまで谷崎作品をまともに読みとおした経験はない
ところが、変態仮面を被ったあたりで、ふと老人のエロティシズムをも描いたとされる谷崎の事が頭に浮かび、気になり始めた。
そうして、手にしたのが「瘋癲老人日記」である。
それはまさに砂漠で迷った旅人が奇跡的に聖書に出会ったようなものである。
キャラ崩壊で傷ついていた私をそれは十分に癒してくれた。

「瘋癲老人日記」(ふうてんろうじんにっき)

この作品をどう紹介したらいいのだろう?
主人公の老人が、体が痛いとか、血圧が高いとか、いつ死んでも悔いはないとか、家族で芝居を見にいったりとか、食事をしにいったとか、看護師さん付で介護的なことをされてるとか、つらつらと日記が書かれているのだが、時折、生々しい描写でエロが赤裸々に書かれていて、特に細君がいながら、元ダンサーである嫁の楓子に性的魅力を感じて入れあげていて、ふたりの登場する場面は圧巻である。

楓子の食べかけのものを口に入れたいという欲求を覚えたり、楓子の足で踏まれたいとか、そんな事ばかり考えていて、実際、高価な指輪を買ってやり、その代償で(?)本当に楓子の脚にさわってみたり、首筋に触れてみたりとやりたい放題である。

既に事をなすことはできないが、性欲だけは77歳の不自由な体になっても、もりもりなのである。                      一見すると露悪趣味ともいえるその描写だが、不思議と不快ではない。むしろ全編が明るいユーモアに包まれていて、私は読みながら終始にやけていた。
特に主人公が、二人だけの時に薬を口移しにして欲しいとせがんだり、楓子から「私と一緒になら映画にいきますか?」と訊かれて、まるで子供のように「うん」とこたえたところでは思わず飲んでいた胡麻麦茶を吹き出してしまった。

かくも赤裸々に自分の思いを素直に語れる谷崎に私は羨望を通り越して、畏敬の念すら抱いてしまった。

思い当たることがあった。
「これ、私の内心じゃん」

まるで谷崎は、いつもは心の底に隠し続けている、私の内心にあるものを書いているのだ。                             内申書ならぬ内心書。

「私だけではなかった・・・」
その思いが「自分はちょっと普通でないのかも」と落胆していた私を救ってくれた。

ただ付け加えておくが、この作品は単なる色ボケおやじの日記ではない。
人間の性(さが)、家族のこと、病気の事、愛や孤独の事、その他様々な時代背景のくさぐさのことがちりばめられていて、ふと、「ライフイズビューティフル」と小さく呟きたくなる佳品である。

というわけで(どういうわけ?)

世の女性諸君よ

たとえ私が時にはいやらしい視線であなたを見ていたとしても、私のことを「エロおやじ」とか、「すけべじじい」とか簡単に言わないで欲しい。
あえて言うなら
「瘋癲老人」(ふうてんろうじん)(和名)と呼んでくれ。

それほどに老人のエロティシズムは深くて、ひねくれていて、泥い。


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