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ひと夏の経験 その2 水俣と石牟礼道子さんと上村智子さんのおかあさんのこと

「そうだ、道子さんに会いに行こうか?」
不意に柳田さんがそう言った。
「でもな、道子さん、大勢の人と会うのは苦手だから、行っても二三人かな・・・」
それは日程にはないことで、柳田さんの急な思い付きだったが、私は鼓動が高鳴るのを感じた。
「会いたい、会いたい」
班のみんなは口々にそう言い始めた。
「会えたら、もう、本望です」
そんな事まで言い出す女の子もいた。
言わずもがな、道子さんとは、名作「苦界浄土」を書いた水俣在住の作家、石牟礼道子さんである。
もう四十年も前の話。
「水俣実践学校」に参加した時の事である。
ちなみに柳田さんとは水俣病支援センター「相思社」代表世話人の柳田耕一さんのことである。
柳田さんは日程の街歩きの途中で、突然、そんな提案をしたのだった。
「じゃあ、行きたい人?」
班の全員が手をあげている。
私はずっと石牟礼文学のファンではあるが、告白すれば、実のところ、その世界を全く理解できていないのである。
次元が違うというのか、作品を読むたびに、まるで煙に巻かれたような、水底の中を漂うような、あやふやな気分になる。
世間では石牟礼道子巫女説があるが、あの感覚は誰もが真似できない唯一無二のものである。
仮にも詩人になりたいなどと、大仰なことをのたもうてる私だから、きっとそのレベルの違いに嫉妬しているのかもしれない。
幸か不幸か、じゃんけんに負けて、私は道子さん詣でから外れた。
手をあげていながら、外れてホッとしていた。恐らく道子さんの前では、緊張して何も喋れなかったはずだ。
それだけでなく、私は当初から予定されていた人にも会いたかったのである。
それは胎児性水俣病患者、上村智子さんのお母さんである。

胎児性水俣病とは、母の体内にいるときにメチル水銀が胎盤を通じて胎児に影響を及ぼし、脳の発育が不十分であったり、神経細胞が壊されたりするものである。
上村智子さんもその一人で、智子さんは肢体不自由で、目が見えず、口も利けなかった。
1971年冬、上村宅を訪れた写真家ユージンスミスは母親の良子さんに智子さんを入浴させるシーンを撮影したいと申し出る。
水俣病を象徴する「入浴する智子と母」が誕生した。
その写真は決して悲惨なものなどではなく、親子の情愛が満ちた暖かいものである。
母親の良子さんは言う。
「智子はわが家の宝子ですたい」
「智子がわたしの食べた魚の水銀を全部吸い取って、一人で背負うてくれたでしょうが。そのために私も、後から生まれたきょうだいたちもみんな元気です。・・・ほんに智子はわが家の宝子ですたい」

写真はLIFE誌にも掲載され、世界に衝撃を与えた。新聞雑誌、写真集、学校の教科書にも掲載された。
撮影から6年後、家族の深い愛情に包まれて、智子さんは21歳の若さで亡くなった。父母の名を呼ぶことは一度もなかった。

上村家の狭い一画に、ぎゅうぎゅう詰めになって、訪れた班の仲間は少し興奮していたようだ。
その一方で当主である筈のお母さんは部屋の隅でうつむきがちに、もうこれまでに何度も訊かれただろう質問に、答えていた。
笑顔は絶やさないが、少しうんざりした様子だった。
私は私で、決して豪華ではない質素な上村家のたたずまいに、実家の炭鉱社宅に戻ってきたような、懐かしい感覚を感じていた。

今、智子さんとお母さんの入浴写真は親族の強い希望もあって、封印されている。
著作権とか表現の自由とか、そういう問題ではなく、いかに優れたものであろうとも、その写真がいつまでも象徴として人目にさらされることを嫌うのは親族として当然の心理で、賢明な判断であると思う。
先述した川本輝夫さんにしろ、智子さんのお母さんにしろ、決して人の注目を集めたい訳ではない。むしろ、心に押し殺していたものが、耐え切れず、それほどの強い経験をしてやむを得ず活動したのだろう。

「こんな田舎だから、気の利いたお茶請けもありませんが・・・」
智子さんのお母さんは、そう言って、みんなに冷たい麦茶と漬物をだしてくれた。
班の仲間は誰一人、手をつけなかったが、私一人ぼりぼりとそれを食べた。
漬物は幼い頃から馴染んでいた、五分漬、だった。


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