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ふたりの詩人 伊藤と伊東

1974年11月24日 TBSテレビ日曜劇場で「林で書いた詩」というドラマが放送された。
制作は北海道放送。脚本家、市川森一の作品である。 
このドラマはある詩人の詩をモチーフにして作られている。
それが小樽にゆかりの深い作家であり、詩人である伊藤整の「林で書いた詩」である。

ドラマのあらすじを簡単に紹介する。
舞台は北海道、小樽。
その港町の枯葉降りしきる図書館でのある男と或る女の出会いから、物語が始まる。
主人公の不器用で風采の上がらない図書館で働く男を、桜木健一が好演している。
そこへふらりと都会から来た何やら思惑ありげな美しい女を香川美子が演じる。
女には都会で縁談が持ち上がっているが、女の心には小さな秘密があった。
その年の夏、小樽の公園で出会い、数日間を過ごした船乗りの男が忘れられないでいたのだ。その面影を追い求め、今一度その男に会いたくて、再び小樽を訪れたのだった。
女は男に自分の身上を偽っていた。男も女に独身と嘘をついていた。お互いの嘘の中で、それゆえ、女は行きずりの恋に未練を残していた。
そこへ、女の様子を疑った縁談相手の親族が依頼した結婚調査員という男が現れる。
仕事柄、調査員の男は図書館を何度か訪れる女を尾行し続ける。
その様子を見た主人公の図書館司書の男は、枯葉に文字を書いて、女に尾行されている事を知らせる。女も男に心を許し、忘れられない船乗りの男の消息を探る事を頼む。
主人公の男は女のために、必死で奔走するが、船乗りの男は船上の事故で死んだことを知る。事実を知った男だが、そのことを女には言えない。   結局、手がかりのない女は船乗りの男をあきらめようと、都会に帰ることを決める。だが、会えなかったゆえに、なお、一層その男との恋が一生に一度の唯一の自分の愛ではなかったかと。そう思う。
一方で、調査員の男は、女の忘れられない恋人が主人公の男だと勘違いしてしまう。そして、そんな男を愛した女を見直したと言い、自分が若い頃、小樽にゆかりの深い伊藤整に魅かれていたことを告白し、「林で書いた詩」を知っているかと、主人公の男に尋ねる。
退屈な日常の中で、ひととき燃え上がった花火のような日々も終わり、登場人物たちはそれぞれの日常に戻る。
エンディングは再び小樽の図書館。抑揚のない平和な日常に戻った主人公が詩集を開き、「林で書いた詩」朗読するシーンで終わる。


拙い説明であったが、何故か私はこのドラマをリアルタイムで見ている。
その頃故郷を離れ、都会で独り暮らしを始めているから、ありうることだが、何故そう断言するかと言えば、私はそのあとその詩を改めて読みたくて、古本屋でその詩が掲載されている文庫本を買っているからである。
それは既に表紙も破れ、手垢がついて酷い状態だが、長い年月を経て今も本棚に残っている。

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 林で書いた詩                     伊藤整

やっぱりこの事だけは言わずに行こう。
今のままのあなたを生かして
寂しければ目に浮かべていよう。
あなたは落葉松の緑の美しい故郷での
日々の生活の中に
夢みたいな私のことは
刺のように心から抜いて棄てるだろう。
私の言葉などは
若さの言わせた間違いに過ぎないと極めてしまうだろう。
何時か皆人が忘れたころ私は故郷へ帰り
閑古鳥のよく聞える
落葉松の林のはづれに家を建てよう。
草薮に蔽われて 見えなくなるような家を。
思い出を拾い集め
それを古風な更紗のようにつぎ合わせて
一つの物語りにしよう。
すべてが遅すぎるその時になったら私も落ちついて
きれぎれな色あせた物語りを書き残そう。

伊藤整は後に小説「鳴海仙吉」の冒頭でも、この詩を少し変えながらも掲載していて、この詩は伊藤自身も気に入ったモチーフであり、世界観であったに違いない。
現実では言い出せなかったことが、やがては思い出となって、ひとつの物語になる。
伊藤整の詩はほとんどが、若い頃に書かれているが、そんないささか、感傷的とも思えるモチーフを脚本家、市川森一も共感し、ドラマにしたのだろうか・・・?

伊藤整 1905-1969
伊東静雄 1906-1953


いみじくも、ふたりの詩人、伊藤と伊東は同時代に生まれ、これもまた偶然、伊藤整は小樽で教員をしながら、また、伊東静雄は大阪で教員をしながら、創作活動を続けている。

同じリリシズムを表現するのに、印象的には全く違う手法と文体で、ふたりの詩は表現される。

伊東静雄は長崎県諫早市の生まれで少年時代をそこで暮らしている。
ちなみに、私の故郷は、有明海という内海を挟んだ対岸にあり、私は、若い頃からこの郷土の詩人の作品に触れてきたが、まあ、とにかく、伊東静雄の詩は難解であるという印象が強い。
しかし、その一方で、切れるような硬質な言葉の中に潜む抒情とニヒリズムは魅力的で、私は事あるごとに、その詩を愛唱してきた。

 わがひとに与ふる哀歌
                       伊東静雄
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山にり
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに

よく知られているこの詩は辛うじて、普通に読み流しても、その選び抜かれた言葉たちが作る、乾いた抒情を感じられるが、たとえば次に紹介する詩をどれほどの方が、理解されるだろうか?

氷れる谷間


おのれ身悶え手を揚げて
遠い海波の威おどすこと!
樹上の鳥は撃ちころされ
神秘めく
きりない歌をなほも紡つむぐ
憂愁に気位高く 氷り易く
一瞬に氷る谷間
脆い夏は響き去り……
にほひを途方にまごつかす
紅くれなゐの花花は
(かくも気儘に!)
幽暗の底の縞目よ
わが 小児の趾あしに
この歩行は心地よし
逃げ後れつつ逆しまに
氷りし魚のうす青い
きんきんとした刺は
痛し! 寧ろうつくし!

保田与重郎は言った。
彼ほど傷つきやすい世界を熾烈に歌う詩人は稀有の異質である。彼は心情を歌うのみでなく、心情で歌うのだ。
また、伊東静雄の最もよき理解者だった萩原朔太郎は、こう言う。
伊東静雄の詩を初めて見た時、僕は「失われたリリシズム」をここに発見し、日本に尚一人の詩人があることを知り胸の躍るような強い悦びと希望をおぼえた。これこそ、真に「心の歌」を持っているところの、真の本質的な抒情詩人である。

伊東静雄は有明海に面した長崎県諫早市でうまれた、とは前述した。
幼い頃、伊東静雄の生家はその地で豚博労、すなわち家畜の仲買業をしていた。
幼いころから成績の良かった彼はそのことを周囲から揶揄された。
そうした少年時代が反映してかどうかは、定かではないが、往々にして彼が後に詩で描く故郷の姿は妙によそよそしい。
「林で書いた詩」で伊藤整が描いた故郷観とはまるで違う。
伊東静雄は果たして故郷喪失者としての自分を意識していたのだろうか?
これは単なる私の妄想である。

大阪時代の伊東静雄の教え子に作家、庄野潤三がいる。
彼はまだ学生だった庄野にこう語っている。
「小説というのは、空想の所産でもなく、また理念をあらわしたものでもなく、手のひらで自分からふれさすった人生の断片をずうっと書き綴っていくものです」

その言葉を実践するかのように、晩年に出した「反響」に収められたいくつかの詩は、伊東静雄特有の晦渋な言葉も難解なイメージもない平明なものである。何が彼の中で、変わったのか、いや、それとも、変わっていないのか?


夏の終わり                    伊東静雄

夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が                   気のとほくなるほど澄みに澄んだ                     かぐわしい大気の空をながれてゆく                   太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落す静かな翳は                  
・・・・さよなら・・・・さようなら・・・・
・・・・さよなら・・・・さようなら・・・・              
いちいちさう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり                      あざやかな暗緑の水田の面を移り
ちひさく動く行人をおひ越して                    
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり                          
・・・・さよなら・・・・さようなら・・・・
・・・・さよなら・・・・さようなら・・・・                    ずっとこの会釈をつづけながら                     やがて優しくわが視野から遠ざかる


まるで立原道造か中原中也であるかのように、前述した「氷の谷間」とは全く別の表現方法だが、底流にある抒情性は損なわれることなく、むしろ爽やかな物語性をも有している。
他にも少し長いので、ここでは紹介しないが、「都会の慰め」という詩はもはや一編の短編小説のおもむきすらある。

ふたりの詩人の残したものを見ていると、小説や随筆とは違う、詩という世界の奥深さとその許容の深さを改めて感じる。
だから、私も詩に触れることをやめられないのだ。

ちなみに、ここで紹介した伊藤整の詩をモチーフにしたドラマ「林で書いた詩」を書いた脚本家、市川森一は伊東静雄と同じ長崎県諫早市の出身である。
彼は故郷の詩人、伊東静雄の詩集「わがひとに与うる哀歌」の初版本を大事に所蔵していたという。そんなエピソードも、嬉しい。




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