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伝統工芸の世界が教える危機

陶芸をなりわいとしている知人から、案内状をもらった。

本人の個展だと思ったら、仲間の女性が、「截金」きりかねという、伝統工芸の技術を使った作品の発表をするのだという。

案内状を見ると、展覧する場所はこの界隈でも人気のカフェで、そこには特に展示スペースがあるわけではないから、作品は壁にでも飾るのかもしれない。

截金とは、薄く延ばした金箔を切って、貼り付けていく技法で、もともとは仏像や仏具の装飾のために使われていたと聞いたことがある。今では伝統工芸として伝えられているらしい。

細かい作業だが、作品に金粉を直接施すより、平板ではなく立体感が出て、金色もまた輝くのだという。

それを現代作家が、どのように表現しているのかは興味深いが、私はそれ以上に、日ごろ気にかけていた「伝統」という言葉に立ち止まってしまった。

伝統というものを、追求すると、日本人の精神性まで考えることになる。深くなりすぎて、ここでは書ききれない。それは少しずつ小出しにする楽しみにして、今回は、こと伝統工芸の世界についてだけ、考えてみた。

後継者がいないのは、どの世界でもよくあることだが、伝統工芸においては、それが甚だしい。

近頃では地方自治体が奮起して、それを残していこうと、頑張ってはいるが、個人の力で頑張って、伝承して、貴重なる者を残していこうと思っても、現代社会はそれを許さない。

正直、受け継いでいく工芸士たちが、食っていけないようでは、そりゃあねえ。どんなに志しがあっても、片手落ちというもんだ。

明治維新を経て欧米化された生活が拡がっていくに連れ、古来から受けた継がれてきたものも、失われていくものが多かった。

そして敗戦。

貧困のなか、物質至上主義が幅を効かせるようになり、不合理な精神性なるものは後ろへ後ろへと追いやられてしまった。

そればかりか、日本の復興の象徴である高度成長時代には経済性ばかりが優先され、成長の陰で多くの貴重なるものを失くしてしまった。当然に私達の価値観や生活様式もすっかり変わってしまった。

さて、伝統工芸の話に戻ろう。

そんな時代の移り変わりの中で、伝統のものをそのまま残していくのは、並大抵のことではない。

たとえば、日本伝統の真髄ともいえる、茶道や、華道や、書道等でつかう道具も、それらを継承し、ある種の使命感を持って、守っていこうとする、作り手の職人たちがいなければ、残るはずもない。

しかしながら、時代は大量生産、大量消費の時代。

100円ショップがもてはやされる。箸や器の生活用品に至っても、伝統ある工芸品を購入して、古来より受け継がれてきた様式美や精神性も含めた心の豊かさを求めるという発想にはならないのだ。

伝統についての議論は果てしない。

私達ひとりひとりが、立ち止まり、考えるべき時が来て久しい。


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