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ふたりのジェームズ その2

「ハードボイルドだど」

と、そう昔のお笑い芸人の、トリオ・ザ・パンチのギャグを真似てみても、私は決してハードボイルドではない。
だが、時折甘いものが欲しくなるように無性にそれが欲しくなる。
レイモンド・チャンドラーも大藪春彦も、本当は嫌いじゃないから、隠してはいるが私の心の底にはそういうものに憧れる気持ちがきっとあるのだろう。

前回の投稿で、私は私の好きな作品として、アメリカの作家、ジェームズ・パーディーの「アルマの甥」を紹介した。
そしてもうひとりのジェームズがジェームズ・M・ケイン。
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の作者である。

アメリカ文学が嫌いじゃない。
前回もそう言った。
それにしても、これは、ザ・アメリカ文学過ぎるだろう。
そう、この作品は何度も映像化されていて、いかにもハリウッド好みだけでなく、ヴィスコンティも映画にしていたはずだ。
だが言い訳をするようだが、私は映画を観ていない。好きな俳優である筈のジャックニコルソンのものも。
私はケインの原作が好きなのである。大げさに言えば時として切実にそれが必要となる。

女は黄色い水着と、赤い海水帽を借りた。支度して出たときには、おれはほかの女かと思った。それほど、まるで子どもみたいに思えたんだ。(中略)砂浜でしばらく遊んでから沖へ出て波に身をまかせた。おれは頭を波の来るほうへ向けるのが好きで、女は足の方から揺りあげられるのが気に入ったようだった。顔と顔をむきあって、水の上にからだを伸ばして、水の下では手と手を握りあっていた。おれは空をみあげた。空よりほかに何もみえなかった。おれは神について考えた。

作品の中の一節である。
そう、まるでカミュの「異邦人」と見間違う。
識者の間ではこの類似性は周知の事実だ。
人を簡単に殺すところも、法廷シーンも、主人公の怜悧に醒めた様子も、こころの動きもよく似ている。
ただし「異邦人」のムルソーは神について考えたりしないし、身近な不倫相手のギリシア人の夫を殺すのではなく、それほど関わりのないアラビア人を殺す方が、より不条理と言えばそう言えるかもしれないが、もともと殺人は不条理であり、もしかしたら生きることそのものが不条理なのかもしれない。

言っておくが、私はカミュも好きで、他の作品も読んでいる。
だけど、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は何度も読み返すが、カミュの「異邦人」は若い頃一度読んだきりで読み返していない。
作品の優劣でも、好悪でもない。ただ私が必要とするか、しないか、だと思う。

おそらく、私はこの作品を読むことで、私の中に潜んでいる、合理性だとか、残虐性だとか、冒涜的な部分とか、犯罪的な部分とか、冷徹な部分とか、攻撃的な部分とかを、昇華しているのかもしれない。この世界で平和に生きていくために。

当然ながら、私は人を殺したことはないが、主人公のフランクが愛人のコーラのギリシア人の夫を殺すシーンは何度読んでも衝撃を受ける。
フランクが、車の窓から顔を出し、山に向かって自分の声を出すギリシア人の夫の頭にスパナを振り降ろす瞬間、殴られた夫がぐにゃりとなってソファーの上の猫のようになる瞬間、コーラが声にならない声を上げ、そして、数秒後、夫が出した声が、山中でこだまとなって帰ってくる瞬間、私の何かが全身を逆流する。

女性ならその生々しさをを「その時子宮が感じた」と文学的に表現できるかもしれないが、男の私が「睾丸が縮みあがった」と評しても下世話なだけだ。
この作品が犯罪小説なのか、情愛小説なのか、ハードボイルド小説なのか、知らないが、チャンドラーはケインのことを猛烈に嫌っていたらしい。

「嫌いってことは、もうスキということやん」

私も然り。
私はケインのこの作品を必要としている。だから時として繰り返し読む。 それはパーディーの「アルマの甥」も同じで、文学の普遍性という観点からすれば、作者にとって、これほどいい読者はいないのではないか。
そこだけは密かに自負している。

ふたりのジェームズ、それは間違いなく、まさに私の人生に大きな足跡を残してくれている。

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