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縁起があるから面白い?

言わずとしれた、私はミーハーである。

別に若い連中に相手にされたいと、おもねいているのではない。

お笑いが好きで、バラエティが好きで、テレビドラマが好きだから、GYAOを愛用している。
もはや真心などというものは、現実の世界にはないのだと思い違いをしていて、それを味わいたいために、ドラマをよく見る。

一方で、年寄りのくせに軽薄な奴だと思われたくない自意識もあって、ドラマ好きは公表していない。もっとも特に無名の私のことなど誰も興味のないことだろうけど。

実は最近巷で話題になった、「silent」というドラマも観た口だ。きゃ!決して歳を取って色惚けたわけではない。言い訳するようだが、話題になる前の初回から見ていて、話題になったから見たわけではない。これもどっちでもいいことだけど。

歳を取っても、ピュアな恋愛ドラマを観る権利はあるだろう。ちなみに50代の女友だちのKさんのインスタを覗いたら、わざわざ「silent」の撮影現場のカフェまで出かけて行って、悦に入っているので、これは決して私だけのことではない。断じて!

若い俳優たちの熱演もさることながら、私は「silent」では、Dr.コトーほどは涙腺は緩まなかった。

私が興味を持ったのは、途中から聴覚障害者となった男性と過去を知っている健常者の女性の細やかな心の交流についてである。

言葉が実に虚しく思えることは人生の中で多々ある。葛藤の中で通じ合えないことの哀しさも知るだろう。

一方で、言葉が無いことで、通じ合える瞬間もある。このドラマの若い脚本家は、静寂や回想を使ってそれをうまく表していた。

だけどどうしても自分の切羽詰まった想いを相手に伝えといときはどうすればいいのだろうか?

所詮、人は皆別の人格。それぞれに違う世界を見ているのだ、と割り切れればきっと楽なのかもしれない、そう思うときがある。

最近こんなことがあった。

交通量の多い道で車を走らせている時のことだ。

道を挟んだ向こう側の交差点を渡ろうとしている視覚障害の男性を見かけた。
白杖を携えているがどうも様子が覚束ない。
彼は独りで歩いている。

信号が変わり、横断歩道を渡った彼は、あろうことか、その後、歩道ではなく車道側を歩き始めたのだ。
白杖で段差のある縁石を叩きながら・・・。
片側一車線の狭い道だが、彼の傍らを車はビュンビュンと通り過ぎている。

考える間もなかった。

私は道路際の花屋の店頭に車を乗り入れて、彼のもとへと駆け寄った。

「おじさん!」
これがいけない。私はいつも性急すぎる。
盲目の男性は思いがけない呼びかけに一瞬ビクッと立ち尽くした。
「ごめん、でもおじさん、今、歩道ではなくて、車道を歩いてるよ」

そう言われた彼のほうが逆に戸惑った様子である。

私はさらに慌てた。
彼の腕をやにわに掴むと、白杖を縁石に当てて、この先に歩道側に上がれる場所があることを指し示した。
そこでようやく、彼は察したようだった。

「ありがとうございます」
そう言って相好を崩したあとの次の言葉に驚いた。
「でも、私は歩道を歩けないんですよ」
「は?」
彼の言葉が回転灯のようにぐるぐる回った。
(歩道を歩けない?)

その時背後でクラクションが鳴った。
店先に乗り上げたはずの私の車の後部が車道にはみ出ていて、車の往来を邪魔しているのだった。
慌てて戻ると、花屋の店主もコチラを睨んでいる。
私は申し訳程度に花一輪買って、早々にその場を離れた。

なにかがずれていた?
歩道を歩けない、という男性の言葉は相変わらず頭に鳴り響いているし、自分のした行動がいかにも浅はかに思えて、偽善という言葉まで浮かんでくる。
そのあとは運転中にちらちらと歩道のすり減った点字ブロックばかりが目について、いささか危ないドライブになってしまった。

思慮が浅いくせにせっかちな私だから、こんなことがよく起こる。
それでもまた同じことを繰り返す。

私にはこれまで多くの人に迷惑をかけてきたという自覚がある。
よく世間では「人は支え合いながら生きている」とか言うけれど、それは裏を返せばきっと「人は迷惑をかけ合いながら生きている」ということでもあるだろう。

だから、それでいいんじゃないかな?

「だってそれが人間だもの」と、相田みつを風にこの文を締めくくったら、少しふざけすぎだろうか?

ちなみに、その時買った一輪の花は車の飲み物ホルダーの空き缶の中で、まだ揺れている。







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