所有者
不覚だった。
我々はスマホを24時間肌身離さず持っているので、それを自身の肉体の1部か何かと思っている節があるのだ。
母が出先でスマホを忘れる度に
「外出でスマホを忘れるなんて有り得ない!!」
なんて小突いていた事を詫びなくてはならない。
前言撤回だ。
スマホは忘れる。
お陰で友達との待ち合わせに30分程遅れた。
先程も書いたが、スマホは自分の肉体とくっついていて自分の出歩く先には必ずスマホはあると、そう思い込んでしまったが故の過失である。
ここで1つの疑問が脳内に浮かび上がる。
スマホの所有者は誰か。
私は本当にこのスマホを所有しているのか。
否、私はこのスマホに所有されているのではあるまいか。
スマホを使いこなしていると見せかけ、実はスマホに使われているのでは私の方ではないだろうか。
まさにコペルニクス的転回。
とある絵本で、主人公達が迷い込んだ山奥のレストランで料理を食べるのは自分と思いきや注文されているのは自分であり、食べられる側であったとわかった時と同じようなゾッとする感覚を覚えた。
なんとなしに開いたTwitter、YouTubeに数十分、数時間と費やしてしまった事は無かったか。
その行為は本当に能動的か。
そこで得られた情報は失った時間に見合ったか。
束の間得られる快楽と引き換えに、スマホに膨大な時間を搾取されてはいまいか。
スマホとは、文明の利器とは本来そういうモノであっただろうか。
いや違う。
我々は本当の意味で、能動的に、スマホを使いこなさなくてはならない。
有能で忠実な家臣が居ても、王がダメなら国は滅びる。
TwitterだってYouTubeだって利用時間、頻度、目的に注意し、上手く使いこなせば有益な情報を沢山得られるツールになり得るはずだ。
もう一度そこに関して考え直す必要があると思った。