風薫る、穏やかに恋はめくるめく
🔹 🔹 🔹
3〜4月の繁忙期を終え、不動産業界の忙しさも落ち着いて来た頃、俺は高村に連絡を入れた。
俺たちは互いに深く干渉し合わない。仕事が忙しい時期は連絡を取り合わないことも多く、仕事の話もしなかった。それが暗黙の了解であり、大人のわきまえであると思っていた。
今でも肌を重ねることはあるが、再会した頃の劣情を暴くような激しさではなく、ささくれ立った心を宥めるような穏やかなものへと変化していた。俺はそのことに不満や不安を抱いたことはなく、自分が特に淡白だとか、すでに枯れたとも思っていない。
ただ、誰かに心を揺さぶられ、感情がコントロール出来なくなるような時期は過ぎたのだろうと思っていた。
🔹 🔹 🔹
「政宗!ボートにでも乗るか?」
高村と俺は、夏に花火大会があった人口湖のある公園へと足を伸ばしていた。これは高村の提案だ。
『お前はワーカーホリックだからな。少し環境の違う所でリフレッシュした方がいい』そう言われて車のキーを渡された。『なんだ、運転手は俺なのか?』と軽く笑うと、『お前、車の運転好きじゃないか』と返された。全く抜け目のない奴だ。ちょうど春田の誕生日が近いということもあり、4人で食事でもしようということになっている。
流石にクリスマスの時のように大人数が集まる機会はもうないだろう。今日も牧に急な仕事が入り、『創一と後から合流します』と連絡が入ったくらいだ。皆、忙しい毎日を過ごしている。恐らく高村も。
「おいおい、勘弁してくれよ。いい歳した男二人でボート漕ぐのか?」
俺は笑いながらそう応える。自然に囲まれた公園は美しく整備され、散策するのにもちょうどいい気候だった。高村と過ごす時間は間違いなく至福の時だ。どんな些細なことでも、特別な何かがなくてもいい。高村の顔を見て、なんでもないことを話して笑い合う。それだけで俺は十分満たされていた。
「お互い、いい歳だからだ。運動不足で腹が出て来るお前を見たくないからな」
「そっちこそ」
俺は高村に促されるまま、ボートへと乗り込む。二人で息を合わせて漕いで進むタイプのものだ。いざ漕いでみると、これがなかなかどうしていい運動になる。今日は平日で人出はまばらだったが、遠くからは賑やかな歓声が聞こえて来る。平穏な時間が流れる中、俺たちはいつになくはしゃいだ。
🔹 🔹 🔹
「はぁ〜結構、疲れたなぁ」
ボートから上がると、休憩するため芝生の上に設置してあるベンチへと向かった。
「お前、ちゃんと漕いでたか?」
途中、自販機で買ったコーヒーのペットボトルを俺に差し出しながら高村が言う。ありがとう、とそれを素直に受け取りながらベンチへと腰掛けた。
「お前こそサボってたろ。途中で足がパンパンになったぞ」
互いに言うほど気にしていない。いつもの戯れあいだ。そよそよと流れる風が肌に心地良く、俺は人心地付くと天を仰いだ。今日の空は抜けるような青さだ。
「仕事は忙しかったか」
不意にそう尋ねられる。
「ん?そうだなぁ、引っ越しの時期は一番の繁忙期だからな。それと白紙に戻ったリゾート開発の立て直しや、部下の指導と顧客への顔繋ぎ。やる事は山積みだ」
俺は非日常の開放感からすっかり気を許していた。いつもは仮面を付け、鎧を身に纏い、自身のテリトリーに他人が入って来るのを必死で拒んでいる。それは自身を守るためのものであり、仕事のスキルを高めるものだと思っている。そこに自分の感傷など要らない。機械的かつ合理的に進めることだ。それでもやり切れない、と思うことはある。
『大変申し訳ございません』
『ですからそれは何度も説明しました通り』
『何度言ったら分かるんだ』
相手に言葉が通じない。それは最も精神に負担がかかる仕事だった。何度も何度も頭を下げ、その都度、丁寧に説明を繰り返す。互いに日本人なのだから言葉の意味は分かっているはずだが、意思の疎通が出来ない。そのフラストレーションが無意識の層で精神を蝕む。自分の気持ちに余裕がなくなると、部下に対して厳しい態度で臨んでしまうこともあった。
『お仕事大変ね〜。でも、それがあなたの仕事でしょ〜』
『お前は良くやってるよ』
『武川君、君には期待しているぞ』
出来て当然。やって当たり前。それ以上のものを。周囲の目は世間一般で言うところの〝使命〟としてのしかかる。この仕事が好きで、やり甲斐を感じていた気持ちが、自分の中で乖離して行くことに疲れていた。
しばらくそんなことを考えていると、高村が静かに話し始めた。
「政宗は仕事自体の厳しさや難しさが理解されないのが辛いのではなく、それを見てくれている人がいない、いや、正確には見てくれている人がいるという自覚がないことが辛いんじゃないのか?」
一瞬、何を言われたのか分からず戸惑ってしまう。〝見てくれている人がいない〟ことに不満を抱いている?俺はそんなに甘ったれた人間なのか。
「そんなことは…」
「正直、お前の仕事のことは全く分からない。だから俺のことを話す。デザイナーの仕事は自分を抑え込んででも、クライアントや消費者のために何もない所から物を生み出す仕事だ。そこに予算という枠組みもある。自分が思い描いた世界をそのまま形にしたくても、決して自分本位では出来ない。そこがアーティストとは違う点だ。そんなジレンマの中で生み出したものが、第三者に伝わらないのなら、それがどんなに素晴らしくても全く意味がない。さらに言うと伝わらないのは第三者が悪いわけじゃない。伝える側の力不足だ」
高村の言葉に、真摯に仕事へ向き合う覚悟を見た。フリーランスでやっている男の言葉にはずっしりと重みがあった。
「自分が伝えたいものは俺ひとりだけでは完成しない。多くの人間が作り上げたものが、誰かの目に留まり、そこで響き合ってこそ作品としての輝きを放つ。それでやっと完成するんだ。だから表現する側は細心の注意を払わなければならない。やり過ぎなくらいでちょうどいい。作品は見る者や角度によって七色にその姿を変える。色んな捉え方があっていい。もちろん何の手応えもないことは数え切れない程ある。でも、自分が何かを誰かに伝えようとする誠実さを怠ったことで、作品としての質を損なったのだとしたら、それは完全に伝える側の問題で、すなわち俺の責任だ」
大学を卒業してから再会するまでの高村を俺は知らない。傍に居ることが辛過ぎて自分から距離を取ったからだ。高村もまた、それについて言及することはなかった。だからどういう経緯でデザイナーになったのか、今の立場にまで上り詰めたのか、そこにどれほどの苦悩があったのか、俺は全く知らない。今でもそういう素振りは一切見せないし、こちらから聞くことも憚れた。
でも、この言葉の重みから、相当な努力を重ねたのだろうということは分かる。一見すると飄々として捉え所のないこの男の言葉に、誠実さが滲み出ているのは、いつも仕事に対して真摯に向き合っているからなんだろう。
「俺が最初に大きなプロジェクトを任された作品が世に出た時、世間の反応を見て回ったことがあった。そこでやっと報われた気がした。雑踏の中、立ち止まって見てくれている人、楽しそうに会話をする人、中には写真を撮る人もいた。さすがの俺もそれを見た時は感動して涙が出たな。その時にフリーになることを決めた」
「そんなことが…。今の俺は自分の仕事に対してそこまでの覚悟は…」
「いや、お前は十分に優秀な男だよ。ただ、人に甘えるのが下手なだけだ」
下を向いて高村の話を聞いていた俺は、顔を上げてちゃんと向き合おうとした。その瞬間、抜けるような空の青さと、鮮やかな緑が目に飛び込んで来た。その光景を見た時、なぜかは分からないが胸が詰まってしまい、自分の中から何かが溢れ出すのを抑え切れなかった。俺は昔、こんな美しい光景を見たことがある。
それは古い洋画だった。
大学時代、高村への一方的な想いを封じた俺は、何日も眠れない夜を過ごしていた。色のない世界で、ただ息をしているだけの毎日。何をするでもなく惰性でテレビを点け、コーヒーを淹れ直そうかとカップを手にした時、賑やかな歓声が聴こえた。
テレビ画面に目を向けると、抜けるような青い空と緑が萌える山々が映し出されていた。ピンク色の花びらが宙を舞い、華やぐ人々がリズムに合わせて楽しそうに踊っていた。後で知ったことだが、それは春の訪れを祝う花祭りのシーンだった。
そこで若い男女が恋に落ちる。何気ない日常と夢のような時間。それも束の間、二人は戦争という悲劇によって引き裂かれる。
ラストシーン、年老いた主人公の女性の長い独白があった。車椅子に乗った彼女は、穏やかな顔で付き添いの女性に語りかける。
遠いどこかの国に、星が降るように
それがその洋画のタイトルだった。俺は美しい映像と音楽が流れる中、ひとり泣いた。溢れる高村への想いの分だけ、涙が枯れるまで泣いた。
🔹
今、こうしてとなりには、奇跡的に想いが届いた男が座っている。別に悲しいわけではない、嬉しいのとも違う、切なさほど苦しいわけでもない。
ただ、目の前の美しい光景が胸に詰まって、泣けて泣けて仕方がない。俺は次から次から溢れる涙を拭おうとして、片手が塞がっていることに気が付いた。高村の手が俺の手に添えられていて、当の本人は明後日の方を向いている。
なんだよ、これじゃ涙を拭えないじゃないか、そう心の中で小さく毒づく。その手の温もりが胸に沁みて、余計、胸が苦しくなる。この男はいつも絶妙な距離感で傍にいる。決して深追いはしないが、突き放すこともしない。
俺たちに確かな約束や形のある繋がりは何もない。だが、俺たちはこうして並んで往くのだろう。何も確かなものがないこの世界で。
「…陽介」
「…ん?」
のんびりとした声がやわらかく響く。俺は高村に向き合うと、握った手を引き寄せてそっと抱きしめた。
風が薫る。
誰かにこの感情はいったい何かと聞かれたら、俺は〝恋〟としか答えられない。
「ありがとう」
高村の肩に顎を乗せ、軽くハグをする。高村の腕が自分の背中に回るのを感じながら、しばらくはこの夢のような時間を過ごしたいと目を閉じた。
「政宗」
「ん」
「俺としてはお前とずっとこうしてたいんだがな、こっち見てるぞ」
「誰が」
「春田君」
高村の言葉にハッと我に返る。慌てて立ち上がって振り向くと、「武川さーん」と春田が大きく手を振っているのが見えた。そのとなりには牧の姿も。彼は俺たちを見留めると、ゆっくりと会釈した。はっきりとした表情は分からないが、いつものようにやわらかく笑っているのだろう。
「じゃあ、行くか」
そう高村に促されて、俺たちは彼らの方に向かってゆっくりと歩き始めた。
🔹 🔹 🔹
あとがき
いつもそうなのですが、彼らが生きている世界に自分も存在出来ることが本当に幸せで、とても楽しい時間を過ごせました。年末には続きが書けると思っていなかったので、降りて来た時は嬉しかったです。またひとつ、武川さんSSのお気に入りが増えました。
公開は天空不動産の定休日である水曜日に決めました。春田、少し早いけれど誕生日おめでとう。うちの春田はいつものようにちょっとアホな子です笑。この後、4人で楽しくドライブして、予約してあった店で宴を愉しんだんじゃないですかね。春田が「いつもラブラブですねー」とか言って、武川さんに怒られて、高村はやっぱりとなりで笑っていて、牧には「マジデリ…」と苦笑いされてそうです。それはそれでとても幸せな光景です。
タイトルが『天高くシリーズ』に似ているのは、天高くシリーズを秋、冬、春、夏とシーズン考えていた名残りです。冬なら『月冴えて』とか、春なら『春うらら』という風に。日本語の美しい響きや言い回しが使いたくて、『風薫る』になりました。内容は天高くシリーズと全く関係ないんですけどね。
今作も幾つか描きたい場面があって、確かにそれは自分を少しづつ削って生まれた物なのだけれど、自分の中では映像として見えていて、それを第三者に見える形に興している感じでした。武川さんにはこんな過去があったのかと自分でも驚きました笑。
美しい映画のような世界にしたいと思いました。カット割やキャスティングもバッチリなので、私がマスマさんに演技指導したいくらいです笑。きっと美しい画が撮れると思います。美しい映像と音楽に定評のあるスタッフの方々にお願いしたい。それでいつ公開ですか?笑。
しかし、うちの武川さんは泣いてばかりですね。そんなに泣かせたいんですかね笑。結局、いつものようにラブラブな二人なだけでしたね。時間の流れはリアルタイムと連動しているので、高村と武川さんはもう一段階、深くなったと思います。
私は劇場版に不満を抱かなかった方ですが、武川さんのことだけは全く納得していません。あれは暴挙だと思っています。武川さんだけではありません。部長の尊厳まで地に落としたと思います。あんなに懐が大きくて、カッコ良くて、大好きだったのに…。
男性同士の恋愛をふざけずにちゃんと描く、というコンセプトからは完全に離脱していると思います。連ドラの最終回から武川政宗が日々どう感じてどう過ごしたのか、そのアウトラインが見えて来ない。あれではただの変人です。牧との恋は無駄ではなかった、という描写が一切なかったのが本当に残念でなりません。きちんと牧への想いを昇華させて、新しい恋のさわりだけでも見たかった。自分の中ではもう、高村以外考えられないですが。
自分には公式の武川さんに対しての愛情が全く感じられないんですよね。中の人がアドリブで応戦してくれていましたが、奇想天外さがおっさんずラブ的、というのはやはり逃げのように思います。たとえ悲恋であったとしても、きちんと筋道を立てて、無理のないストーリー展開をして、多くの民が納得出来る終わり方をして欲しかったです。
だから自分の中では劇場版の部長と武川さんのことはなかったことになっています。すっかり記憶から消えています笑。武川さんは今でも高村と穏やかな日々を送っていて、青い空と、甘く香る珈琲がある生活を送っているのだと思っています。
©︎ 🌸 Pink Moon Project