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母と私の魔法授業
(母のウツ抜け60日の記録)
ある時、突然?母が拒食症になってしまった
本当に母が言うとおりこのまま餓死してしまうのかしら?
なんで食べられないの?これってウツ?
みつけた!
グルグル魔王!やっつけてやる!
神さま!エンジェル!助けて~~
ハラハラドキドキの2か月間をまとめました
目 次
◇はじめに
◇ガンじゃなくて良かった!良くない?
◇食べる?食べられない
◇うつとわかって良かった!良くない?
◇二つの薬
◇神様仏様、N様
◇牛を捜す
◇作戦会議
◇出来る?出来ない?大丈夫!
◇病気は神様からの宿題
◇コブクロが教えてくれた
◇放たれたナイフ
◇歌っちゃえ!笑っちゃえ!泣いちゃえ!
◇エネルギーチャージ
◇ホワイトチェストナット
◇フラワーエッセンス
◇グルグル魔王との闘い
◇許しの奇跡
◇甘えん坊さんとの別れ
◇汲み出す?溢れるほど注ぐ!
◇たくさんのデビル達
◇エンジェル登場
◇抜けた!
◇増えろ!幸せホルモン
◇春の訪れ(娘道)
◇心の健康診断
はじめに
「母は、いつから魔法を使えたのだろう?」
最近、軽々と魔法を使って人生を愉しんでいる母をみると、ふと、疑問に感じる事があります。おそらく、子どもの頃から、その能力はあったはず。いえ、もしかしたら本当は、日本人すべてが魔法を使える不思議な民族なのかもしれない。そう確信しつつあります。
その能力は封印されていますけど。。
6年前、母が感情障害になった際、私がいろいろな気づきを得ながら母をサポートし、2ヵ月で回復することができました。この作品は、そのプロセスを日記形式でまとめた物で、当初のタイトルは「母と私の大丈夫日記」でした。
「ウツで悩んでいる方に、伝えてあげたい!潜在意識をクリアにすると、ウツは消えて、人生が輝いてくる事を!」そんな思いで、書き上げてすぐ、出版を目指しました。
が、いざ出版を目指すなかで、もっとわかりやすい方が良いだろうという出版社さんの意見により、すべて書き直し。
「老いを愉しむ母娘の『暮らしのコツ』」というタイトルで、全然別の内容を出版したのです。(2021年・Clover出版)
時が経ってみると、母がウツになった要因は、母自身が自分に黒魔術をかけてしまったのではないかと感じているのです。
母がかけた魔法は、母にしか解けない。だから、少し大変でした。
自分自身の「思い込み」「信じ込み」が呪いの犯人です。なので、自分の中に、どんな「思い込み」「信じ込み」があるのか、気づくことが大切です。
今、地球的・宇宙的に大きな変化を感じる現代で、なんだか、日本人のほとんどが、もしかしたら魔法にかかっているのかもしれない。そんな風に感じて仕方ないのです。
大丈夫ですか?本当の自分を生きていますか?
どんな「思い込み」「信じ込み」から、自分の人生をクリエイトしていますか?
現在母は、元氣に90歳の誕生日を迎え、自分の愉しい事を、魔法のように引き寄せながら幸せな毎日を過ごしています。
私は、この時の3ヶ月間に、すべてのヒントがあると感じたので、お蔵から取り出す事にしました。
誰かの幸せのために、この作品がお役に立てたら幸いです。
当時の自分に敬意を表し、原文のまま、掲載いたします。 令和5年5月吉日
ガンじゃなくて、良かった!良くない?
一月三十日
妹からメールが来た。母の胃カメラの検査がニ月十日に決まったが、自分は付き添いに行かれないので、私に行って欲しいとの相談だった。
検査まで十日も待つなんて、心配症の母にとっては辛すぎるのではないかというのがその時の印象だった。
私の予感は的中し、この後、私達を過酷な日々へと誘う引き金となってしまったのだが、この時点では誰も知る由もない。
検査の予約をしたのは、Tクリニック。高血圧の母がここ三十年近くもお世話になっていて、主治医のE先生に母は絶大な信頼を抱いている。
そもそも、父が胃ガンで亡くなった際の担当医だったのが出会いだと思う。スキルス性のガンだった父は、食欲がなくなり、食事がとれなくなって入院したものの、亡くなるまであっという間の短さだった。確か、ゴールデンウィークあたりに食欲がないと言い出し、六月に検査の結果即入院。七月の終わりに亡くなってしまった。
入院の際に、母と私の二人を呼び出し、告知したのがE先生だった。
父が亡くなった後、私達家族は、三人で辛さを分かち合い、父の死の悲しみを乗り越えた。その後、私と妹は結婚して家を出、以来母は元気に頑張って一人で暮らし、現在に至る。
そんな母であったが、年末あたりからあまり元気がなくなり、お正月には毎年楽しみな妹家族との食事もあまり食べられなかったという。
妹は精神的なものではないかと、母をなぐさめていたが、自分の食事がとれない感じが、あの時の父と似ていると思い、ひどく不安がっているのが明らかだったので、私が検査をすすめたのだった。
E先生の担当は月曜日と金曜日。ニ月三日の金曜日は、何か不都合があったのだろう。個人病院とは違う融通性の無さで、検査まで十日も待たされる事になってしまった。
検査までの十日間、私と妹はできる限り電話してはげまし、一日一日をなんとか乗り切っていったが、日に日に元気がなくなる母は、電話越しでも痛々しかった。
ニ月十日
やっとこの日が来た。
胃カメラなので、当然食事抜きで検査に向かう。
麻酔をしての検査なので、母が検査室から出てくるまでは相当待つだろうと予測し、私は暇つぶしに本を持って来ていた。
ところが、その本をほとんど読まないうちに母が検査室から出て来た。数年前に私が体験した時よりも更に医学は進歩している。
やっと覚悟を決めて先生の前に座った母に、先生は事も無げに
「うん、大丈夫。年の割にはきれいな胃だね。ちょっとポリープはあるけど。すぐに食べられるようになるよ」
「え、本当ですか!」
と母。
私は、万が一ガンだった場合、本人に告知しないだろうと勘ぐっていたが、先生が検査の結果の書類をくれたので、その心配は杞憂のようだった。書類には、私にはよくわからないが胃の写真と、検査担当の医師からE先生宛てに、異常なしとの報告の文面もあった。
喜んだ私たちは、その後喫茶店でランチを食べた。母は、量はそんなに食べられないと言いながら、半分こにしたサンドイッチを嬉しそうに食べ、ココアも飲んだ。
この十日間、お風呂もオチオチ入れなかったと母から聞いたので、その後一緒にスーパー銭湯に行った。洗髪までしたら、とても疲れたと言って、母は本当に疲れ切った顔をしていた。
「ずっとご飯食べられなくって、体力落ちてたのに、その上検査もしたりでお風呂は無謀だったかな、ゴメンね」と謝った。疲れすぎて食事したくないと言う母に、私は、今日はゆっくり寝てね、と言い残して帰宅の途につく。
ニ、三日もすれば休養も食事も順調にとれて、すっかり元気になるだろうと、この時私は簡単に考えていた。
食べる?食べられない
ニ月十二日
突然、母から異変の電話が入る。
検査の結果はなんともなかったのに、ますますご飯が食べられなくなったと言って、ひどく動揺していた。
ん?なんで食べられない?
その様子がただ事ではなかったので、私はあわてて実家まで飛んで行った。
私が行くとホッとしたような顔をしていろいろとりとめもなく話し出す。
寒くて乾燥しているせいか、指先が割れているみたいで痛いとか、古い家で窓が固くて閉まらない所があり、隙間風が寒いとか…。結局、こういった、生活の中のちょっとした事を誰かと分かち合える機会が減ってしまい、寂しいのかなと思った。以前は私が夜の晩酌の時間に電話をしていろいろおしゃべりしたが、仕事のシフトを夜にしてしまい、めっきり話す時間が減ってしまった。妹も、パートの仕事が忙しく、なかなか会えないらしい。その上、あまりの寒さで外出が困難で、旧知のお友達とのランチも春まで諦めてるという。
さっそく、母のために指先用の絆創膏をネットで購入する。窓も外からビールケースに乗って閉めようとしたが、やはり固くてダメだった。今度、夫に来てもらうまでこのままで我慢してもらうしかない。
この日は一緒にうどんのチェーン店に行ったら、母は、一人前、しっかり食べる事が出来た。
一人だと、全然食べたくならないし、何を食べてよいかわからないと言う。
私「食べたくなったら食べたい物を食べたらいいんじゃない?」
母「だけど、食べたくなった時にはすぐにそれが家にはないじゃない。」
私「うーん、確かにスーパーまでは少し遠いしね。生協の宅配をとってるんだから、食べたくなりそうな冷凍物でもまとめて買っておけば?」
母「本当は自分で作らなきゃいけないのにね」と罪悪感タップリにつぶやく。
それを聞いて、なんだかちょっと違和感を感じた。もう一人暮らしも長いのだから、その辺の手抜き具合は、確立しているはずではないだろうか。母は随分前から平日の夕食は宅配のお弁当を頼んでいた。どうやらその事を誰かに非難されたのかもしれない。料理は母にとっては得意分野ではない。そのかわり、家の中はいつでもきれいに整っているし、つい最近までは服や浴衣をリメイクして、室内着に蘇らせたりもしていた。何か習い事をすればトコトン頑張って師範レベルまで向上させても来た。だから、料理はそんなにできなくてもよいのだと私も考えていたし、母も力を入れてこなかった。もしかしたら、そのせいで何を食べたらよいかわからなくなってしまったのだろうか。
よし!では、私が手抜き料理を伝授してあげよう。自慢じゃないが、娘のお弁当作りがなくなってからというもの、私は冷凍食品と作りおき料理を駆使して、手抜き料理を手抜きではなく見せる技を確実に磨いていた。
私「一人なんだから、全部手作りじゃなくたっていいのよ」
と言って、帰りに一緒にスーパーに行って、母が好きそうなお惣菜のレトルトパックなどを買う。
帰ってから生協の注文書を私が記入した。
「今は、野菜もカットしたのもあるから、それ買っておくね。大根なんか一本買ったって、食べきれないでしょ。根菜も、カットした冷凍があるから、必要なだけ煮ればいいのよ」
冷凍のシュウマイやガンモドキ、即席のお味噌汁なども注文する。
私はそのまま実家に泊まって、朝、母と一緒に気功をした。動揺している母の様子から、とっさに気功が良いのではないかと思いついて、DVDを持参していた。ガン治療などに気功を取り入れている医師が、自ら出演している『簡化外丹功』。母は初めてなので必死で真似している感じだったが、なんとかやり切った。
一旦、仕事に行ってからまた実家に行ってみると、私がいない間、何も食べていないようだった。
母「一人だとね、全然食べる気がしないのよ」
そう言われてしまうと、母に食べてもらう為に、毎日実家に通わざるを得なかった。
ちょうどパートのシフトが続けて入っていたので、実家から通う形になった。片道一時間以上の往復だ。
うどんなら食べられるかと一人の時用に作っておくのだが、仕事を終えて実家に行くと、やっぱり食べた形跡がない。私と一緒になら食べられると言いながら、その食べる量もどんどん少なくなってきている気がする。
なんで食べられないのだろう?口では、「それだけ食べていれば十分よ」と慰めながら、日に日に私の不安は大きくなっていった。
この時点で母は、体重を7キロ近く落としていた。このままだと、どうなるのか。
母はもっと不安なのだろう。母の口からネガティブな言葉が多く出るようになってきた。
朝の気功も、二日目からは、そんな気分じゃないと言って、やらなくなった。ドラマやスポーツ観戦は好きなはずだが、テレビも見る気がしないという。一緒にいるとこちらまで気が滅入ってしまう。
私「お母さん、言霊の力って知ってる?そんな、マイナス思考な言葉ばかり口からでると、良くならないよ。自分が言った言葉は、必ず自分は聞くんだからね。良い言霊を自分に聞かせるのが大事だよ」
と言っても、母はそんな事言われたって…という感じで悲しそうにするだけだった。
私がいないと食べないので、仕方なく毎日通った。
五日目の夜の運転が、疲れのせいか視界が悪くて怖かった。これは危ない。この生活はいつまで続くのだろうか。
私の自宅にしばらく泊まってもらおうかとも考え、夫も了承してくれたが、具体的にイメージすると、良い方法とは思えなかった。母に提供できる居住空間は狭すぎるし、ディサービスにも行かれなくなる。
母は、数年前に足を痛めたのをきっかけに介護支援の認定を受け、リハビリのディサービスに週二日、送迎車で通っていた。もう、足は治ったのだが、運動とコミュニケーションが出来るのでありがたく通っている。食事の為だけに我が家に呼べば、ますます狭い空間に閉じこめられ、ストレスがたまるだけなのは明白だった。
私は、先の見えない暗闇に入り込んでしまったような気がしていた。
うつとわかって良かった!良くない?
ニ月十九日
明日は月曜だ。
たしか母のカレンダーには「二十日歌声」と書いてあった。
「歌声」は、あまり縛りのないサークルのようなもので、行きたい時に行き、声楽家の先生の指導のもと、2時間くらい楽しく歌う会だ。だが、今の母には無理だと思った。行く気がしなければ、E先生の所に行って、食事がとれない分、点滴か何かしてもらえないか相談しようと考えながら実家に行った。
夕飯の後、(この日も、母はほんの少ししか食べられなかった。)母が
「あなた、どう思う?今の私の状態。」
と聞いてくるので
「うーん、気持ちの問題だと思うけど。胃はなんともないんだし、食べれば、ちゃんと収まるもんね。下痢もしないし、吐いたりもしないし。。。」
「そうなのよね」と母。
明日さー、と言おうとすると、母がいきなり
「ねぇ、私、うつ病じゃないかしら?」と言い出した。
え、うつ病?聞いた事はあるけど、そうなの?と驚いた反面、どうして今まで気がつかなかったんだろうという驚きもあった。
母は「家庭の医学」の本を持ち出し、
「ここのね、うつ病のところ、よく読んだら、何だかピッタリなのよ」
そうだ!それだ!思わず私は叫んでしまうくらい嬉しかった。
原因がわかれば対処ができる。良く効く薬もあるんじゃない?きっと。
私はむしろウキウキして、早速ネットで近所の心療内科を探し始めた。
最初は私が車で連れて行くけど、元気になれば1人で薬だけもらいに行ったりって事も考えられるから、あまり遠くない方が良いよね。
いろんな病院のHP検索したり、評判もみたり、位置を確認したりと忙しい私を横目に母は、
「本当はうつじゃないって言って欲しかったのに」とボソッと呟いた。
ニ月二十日
立地的に、ここがベストと思った病院は、完全予約制で、初診は最短で二十五日の金曜日となっていた。二十五日まではとても待てない。かと言って、他の病院にも踏み切れず、結局、朝、初診窓口に電話を入れ、なんとか今日診察して欲しいと頼みこんだ。キャンセル待ちにしてもらった上で、E先生のクリニックに行った。こっちも予約は無しだった。
月曜の朝なのでTクリニックは混んでいる。どれくらい待たされるだろうか。心療内科の方のキャンセルは出るだろうか。だいたい、心療内科って、そんなに忙しいの?という疑問もあった。とにかく祈るしかない。昨日の夜の段階で、天国の父にはお願いしてあった。
「どうか、お母さんが、良い心療内科の先生と出会えますように」と。
Tクリニックで呼ばれるのを待ちながら、さらに心療内科にキャンセルが出ますようにと祈る。
待ちわびた電話が入ったのは十時くらいだったと思う。十一時の枠が空いたので、その時間で良ければ来て下さいとの事だった。行きますと即答した。
ここから心療内科まで車で行き、パーキングに入れて少し歩く事を考えると、十五分は欲しかった。
こちらも、診察の後、会計も待つだろうし、血液検査もしたいと考えていたので、これ以上待たされたら、間に合わなくなる。早く早く!もう限界!診察室の扉をこじ開けて、すいませんけど、先に見て下さいと無理を言おうかと思った十時十五分頃、やっと呼ばれた。
二つの薬
どうしたの?と優しく聞いてくるE先生に、母は涙ながらに、相変わらず食べられない事を訴え始めた。そんなにゆっくり話している暇はない。私は手短に、これから心療内科に行く事を伝え、ずっと食べられない場合、こちらで点滴や入院はさせてもらえるのかを尋ねた。
先生はちょっと驚いたようだったが、私と母の様子をみて、
「娘さんは、お母さんの事を本当によく考えてくれているから、不安がらないで行ってらっしゃい」
と、母に言ってくれた。母が先生に、心療内科なんて行かないで良いと言って欲しがっている事も承知している感じだった。
胃の検査が異常ないので、入院や点滴は出来ない事を確認し、念のため現在の健康状態を知りたいから、血液検査を頼んだ。食が細くて便秘がちになってしまったので、便秘薬ももらい、急いで病院を移動する。
初めての心療内科は、なんだか空気が重い感じがして、私も緊張した。
最初の担当のH先生は、私が考える『医師』の概念からは程遠い印象の方だった。白衣でなく、Gパンにシャツ、ボサボサの長髪を一つに結んで、低い声でモゴモゴと優しく話しかけてくる。
耳の遠い母とは、時々会話はちぐはぐになりがちだったが、母の言葉を引き出すよう、努力してくれているのはよくわかった。
いつから食べられないとか、寝られない時はどうするのとか、簡単な事をいくつか話した。
私にも、どんなお母さんですかと聞くので、何でも出来る自慢の母ですと答えた。
では、まずは良質な睡眠が大事なので、薬を夜、半錠、一週間続けてみて下さいと言われて診察終了。
後で考えた事だが、心療科というのは、初めての患者を理解するのはとても難しいに違いない。内科のように、血液検査で数値が出ている訳ではない。八十年以上生きてきた母の性格や、うつになってしまった原因など、一度の診察でわかるはずもないだろう。とりあえず、抗うつ剤を少なめに処方して、一週間飲んだ上で次の対応を考えるのが基本対応らしい。
しかし、この時のわたしにはそれを理解する余裕はなく、早く治してもらいたい希望が強すぎて、なんだか物足りない感じを受けた。
隣の薬局に薬を貰いに行くと、薬剤師さんがとても親切にいろいろ聞いてくれた。
母は随分前から、夜眠れずにあれこれ考えて血圧を上げていたので、内科のE先生に睡眠導入剤を処方してもらっていた。それを飲まないと眠れないくらいに依存していた。
心療科のH先生には、その睡眠導入剤は、出来れば飲まずに抗うつ剤で眠れると良いけど、即効性はなく、効果が出るには何日かかかるから、睡眠導入剤も飲んでも問題はないと言われていた。
薬剤師さんは、もっと強く、睡眠導入剤はやめた方が良いと勧めてきた。内科の先生は、抗うつ剤を処方する事が出来ないので、この薬をよく処方するんですけど、と少し口籠もった。
どうやら、よほど良くない薬なのだろうか。ただ、母が内科の医師への信頼から、既に睡眠導入剤に依存しているのを理解して、H先生は緩やかに変換を勧めた事が理解出来た。
家に帰って、ネットでそれぞれの薬を検索してみたが、この時は良くわからなかった。医学的な物質を指すらしいカタカナが羅列されていて、既にパンク状態の私の脳には、入ってこなかった。
初めて抗うつ剤を飲んだ後、母はいつもの睡眠導入剤を三十分後に飲んだ。(私は母に、薬日記をつけておいてと頼んだ。何時にどの薬を飲んですぐ寝つけたとか、よく眠れたとか、そうじゃなかったとか、朝の気分はどうだとかいう記録に)二、三時間後に、手足が突っ張る感じがしてしばらく寝られなかったと心配している。私は薬剤師さんに電話で相談すると、どちらの薬が原因かわかる様に、もっと時間をあけて飲んで下さいと指導された。
結局、二時間は間をあけるようにはしたが、母は両方の薬を必ず飲んだ。抗うつ剤の効き目はすぐには出なかったが、良く眠れた朝はすっきりして、多少前向きな発言も出るようになった。かと思うと、朝寝し過ぎて、いきなり落ち込んでいる日もあった。良く眠れたんだから良かったじゃないと言っても、こんなに寝てちゃいけなかった、と焦った様子で身支度をしている。
すっきり起きた日でも、明るい顔は長い時間は持たない。ちょっとしたキッカケで、すぐに悲しい表情に変わってしまう。一度などは、朝、母が張り切っていたので、お気に入りのリラクゼーションルームまで送ってあげたのに、店長さんとの会話で落ち込んでしまい、迎えに行った時は、もう泣きそうな感じで私を待っていた。
せっかく高いお金をかけて、悲しい思いをしに行ったようなものだったので、私も悲しくなってしまった。
私「ごめんね、お母さん。一人暮らしで寂しい思いさせちゃったせいかな」
と言って泣いてあやまると
「そうじゃないわよ。でも、私はこのまま餓死するしかないかもね」と、母。
そんな!嫌だ嫌だ!そんな悲しい死に方はさせるもんか!お母さんには、必ず治ってもらって、もっと、もっとずっと後に、にっこり笑って幸せに最期の時を迎えさせてあげるんだ!
そう決心して私が泣きながら自宅に戻った後、母は一人で気功をしていたそうだ。
自宅では、ほとんど掃除も出来ず、散らかった部屋で夫が寝そべりながらアイパッドをいじっている。たまに帰った時くらい家事をやらなきゃ、と忙しい私に、話しかけて来た。
夫「うつ病って別に心の病気じゃないみたいだよ。原因は脳だって。セロトニンが減ると発症するって」そう言ってアイパッドの画面を見せようとする。
ん?脳の?なんだって?
私「脳って言ったって。心って結局脳なんじゃないの?脳の病気なの?」
夫「病気じゃないよ。分泌するホルモンのせいじゃないか?」
ん??心じゃない?病気じゃない?またまたカタカナばかりのそのHPの画面を、混乱した私はどうしても理解する事が出来ず、アタフタと掃除に逃げた。
神様仏様、N様
実家への往復で趣味のテニスが、ほとんど出来ない状態になっていたが、そろそろ試合のシーズンが近づいていた。私は今年から、Nさんという方と、新たにペアを組んで試合に臨む事になっており、普通ならなるべくペアでのフォーメーションの練習をしたい時期だ。
でも、今の母の状態だと、一日一日先が読めず、テニスどころではない。おそるおそるNさんに連絡をとり、母がうつ病である事を伝え、練習が出来ない事をお詫びした。すると、Nさんからは意外な返事が返って来た。
実はNさんのお母様も、数年前にお父様が亡くなった事をきっかけにうつ病になってしまい、それを克服して現在は元気に1人暮らしをしているという。
実際にうつ病を克服して、元気に生活している人がいると知っただけでも、私には大きな希望だった。しかもNさんは一人娘だという。他に頼る姉妹もいない上、その頃お子さんもまだ幼く、片道2時間かかる実家への通いは、本当に大変だったという。それはそうだろう。私には妹がいるし、実家まで2時間はかからない。娘ももう大学生なのだから、その頃のNさんから比べたら、なんと恵まれていることか。
Nさんは、私の苦労を理解し、週に一日だけはテニスに来て欲しいけど、後はお母様の事に専念してねと言ってくれた。そして、何より心に響いたのは
「みくこさんが不安に思ってると、その不安をお母様が感じとって、不安になってしまうのよ。だから、みくこさんが、大丈夫、絶対に治るから大丈夫って、大きな気持ちでいれば、お母様にも安心感が伝わって良い方向にいくわよ。」という言葉だった。
なんだか子育ての時みたいだと思った。母親が不安を感じていると、子供がその不安を感じとってしまうと、子育て書で読んだ事がある。
具体的にもNさんの経験談を聞かせてもらい、食事がとれなくて多少痩せても大丈夫なんだと安心する事が出来た。
その後、母と接しながら、ついつい母の不安に引っ張られそうになると、度々Nさんに電話をして励ましてもらった。
二月二十四日
内科の血液検査の結果がでた。何の問題も無かった。むしろ、血糖値などが下がって健康な数値になっていた。痩せて、確かに骨骨しい感じではあるが、人間は案外と強いらしい。そんなに簡単に餓死は出来ないとわかったので、私は実家に通う日数を減らす事にした。
一週間後と言われた心療内科を、私の都合で早めの五日後に行くと、薬が半錠から一錠になった。H先生は初診の時よりあっさりと、しかも当然の様にその事を告げ、質の良い眠りが必要ですと念を押した。
明らかに不満そうだった母が、家に帰ってから
「薬飲んで、良く眠れば、それで解決?」
と、吐き出す様に言うので私は
「本当の解決は、お母さんが眠れずにあれこれ悩んでいる事を、口に出して言う事だよ」
と、言った。
そして、薬が増えたから、また寝過ぎたら嫌だと言う母の為に、睡眠導入剤の方を減らす事にした。薬剤師さんはその事に賛成で、私が実家にあった睡眠導入剤を持って行くと、半錠にカットしてくれた。
牛を捜す
ニ月二十六日
質の良い睡眠が大事だという事だから、起きてる時も座禅などが良いのではないかしら?
そう思い立ってネットで検索してみる。
座禅の効用を検索すると『心が落ち着く。安らぎが得られる。ストレスが解消される』いいね!
なるほど、座禅専用の座布団があるのね。母は痩せてお尻の肉がなくなったから、椅子に座るのも辛いと言ってるけど、これなら座れるだろう。普通の座布団でも、一枚の上にもう一枚二つ折りして載せる。これでも良いかな。手の組み方も決まってるのね。座るだけでもハードル高いのに、手の事まで注文つけたら、きっとやらないだろうな。手は好きなようにしてもらおう。
邪念をはらう為に数を一つ二つと、十まで数えてまた戻る。ウンウン。
出来ればお線香が一本燃え尽きるくらい出来ると良いが、毎日五分でも良いから続けるのが大事。
お線香が燃えるのって、何分くらいかかるかしらね。
えっ!『座禅とうつ病』って言う本を書いた脳科学の研究者がいる!購入まではしなかったが、座禅を組む事によって、脳内物質セロトニンを増やすことが出来るという項目があった。
夫が言ってたっけ。うつ病は、脳のセロトニンの減少によって発症するって。この事だったのね!つまり、座禅すれば治るって事だ!わーい、座禅座禅♡
さらに検索を続ける。
自分がどう変わっていくか、十段階で知っておくとよい。
悟りを牛に例えて
一、尋牛
牛を探そうと志す
現状に疑問を抱く。
「どうして自分はこんなに疲れているのか」問いかける。
二、見跡
牛の足跡を見出す。
進むべき道が見えて来た状態。ただ、迷いも残してる。
ふーん、十までは遠いな。まずは第一段階から!っと。
母に話してみる。
私「座禅が良いんだって。治るって。お線香一本燃えるくらいできるとすごく良いって」
母「お線香一本って言ったら四十分くらいじゃないかしらね」
私「(お!簡単に言ったね。出来る気かしら?)今度一緒にやってみよう。出来たら一人でもやってみてよ」
座布団の事と数を数える事だけ教えて、私は自宅に戻った。
作戦会議
ニ月二十七日
妹に電話をして、現状報告と今後の相談をする。母の絶望を知らない妹は、心療内科に消極的だった。E先生に励ましてもらえば元気になるだろうし、睡眠導入剤ももらっているんだから、それじゃダメなの?と聞いてくる。ダメ!と私は言い切った。とにかく、内科でもらった睡眠導入剤と抗うつ剤では全然違うと説明した。抗うつ剤のおかげで、多少なりとも前向きに会話が出来るようになったのだから、母には引き続き薬をきちんと飲むように電話してねと頼んだ。私がそう言うなら仕方ないと言う感じで、妹は了承した。
妹も私と同様、内科に入院させてもらえないかと考えていたようだ。食事が出てきて、看護師さんと会話が出来れば、こんなありがたい事はない。私だって心底それを望んだが、叶わなかったのだ。身体はなんともないから入院はさせてもらえないと伝えた。
Nさんの話をしたら、びっくりしたようだった。
妹「その方、お母さんを自分の家に引き取らないでも治ったの?」
私「そうだって。片道二時間もかけて通って治ったって。だから、私もこれからは週にニ泊くらいを目処に通うようにするよ。仕事も忙しい時期だし、あまり自分を犠牲にしちゃうと、あとで無理が出るような気がするから。疲れての事故もこわいし。私が元気じゃないと、続かないと思うんだよね」
妹「それはそうだけど…」
妹は明らかに、母が一人でいる時間の長さが不安のようだった。かといって、自分も仕事だけでなく、娘の学校行事が立て込んでいて忙しく、しばらくは実家に行かれない状況だ。
妹は私に、もっとお母さんのそばにいて欲しいとも言えずに
妹「それで大丈夫なのかな…」
と、不安な声をだした。
私「大丈夫だよ。きっと。というか、そう信じないと!大丈夫って信じて、私たちが元気に励ますのよ。お母さんを。それしかないじゃない。それで、お母さんには、あれこれ悩まないでもらって…」
妹「どうやって?!」
妹は泣きそうな声で、私の言葉を遮った。
どうやって?本当にどうやって?
毎晩、不安な事をあれこれ考えて、心配で眠れなくて血圧を上げて。内科の主治医が見かねて睡眠導入剤を処方せざるを得なかったお母さんが。どうやって、あれこれ悩まないようになるというのか?
大丈夫よ、きっと。座禅すれば。座禅が出来れば…
この思いは、声にならなかった。
出来る?出来ない?大丈夫!
薬が一錠になった二日目の朝、母は、夢の中で声を出して笑っている自分の声で目が覚めたと幸せそうに言った。私は、なんだか怖い気がした。一体どんな技を使った薬なんだろうか。
抗うつ剤に少し詳しい知り合いに相談すると、H先生が処方した薬は、かなり最新のタイプらしい。「あまり、長期間服用するとね、ちょっと…よくないかもね」とアドバイスしてくれた。
今は化学の進歩に感謝するが、なるべく早いうちにこの薬は卒業したいと思った。
しかし、私が口に出すように勧めた悩み事なども、ポツンとメールで送って来たりして、良い方向に向かっていってるのは間違いない。
せっかく前向きな時間が少し長くなって来たので、言霊作戦を開始した。
ピンクの紙に、『ありがとう』『大丈夫』『プラス思考で願いは叶う』と大きく書いて、仏壇の横に置く。
「朝、お経あげた後とか、昼とか夜とか、声出して読んでね。自分の声で癒されるからね」
期待していた座禅は、四十分どころか、三分も出来なかった。お尻の肉が無くなって、座ると骨が当たって痛いと言い訳して、すぐにモゾモゾ動き出す。
座らないで座禅が出来ないものだろうか。私はふと思った。そういえば、私は窓拭きをしている時、次第にガラスを磨く事に夢中になって、無の境地に入っている時がある。あれがもしかしたら、座禅の時の脳の状態なんじゃないかしら?でも、今、窓を磨くには、外は寒すぎる。そう考えて
私「ねぇ、お母さん。鏡磨いてみたら良いかも。何にも考えないで、ただピカピカに磨くの」
母「そんな事したら、この痩せこけた顔がはっきり見えちゃうから嫌よ。見たくないのに」
私「じゃ、床磨くのは?」
母「今の私には出来ないわよ。」
何を言っても受け入れる余裕が無い事を、この時は気づかなかった。
そのせいか、いろいろな事を、出来ないと言って嘆いている。
何を着たら良いか考える事が出来ないから、毎日同じ服ばかり着ていて嫌だと言う。
食卓のテーブルの上が片付けられなくて嫌だとも。確かにいつもより、いろんな物がごちゃっと置きっ放しになっている。だけど、片付け下手な私からすれば、許容の範囲だ。
出来ないと言いながら、実は出来ている事もいっぱいあった。
携帯のメール打ちや、テレビの録画操作などは、確かにいつもより困難な感じではあるが、焦らないでゆっくり操作すればちゃんと出来る。
例の隙間風の窓も、いつも間にか、隙間をピッタリと『プチプチ』(梱包用ビニール)で綺麗に埋めてある。この発想はなかなか真似出来ないし、仕上がり具合もレベルが高い。
病院から持ち帰った薬を、曜日毎に仕分けしている様子は、とてもしっかりしていて、幸せそうにすら見えた。
レストランに行った時も、やっぱりここでは食べられないと焦って帰ろうとするから、あわてて持ち帰り用にしてもらって会計をしていたら、ちゃっかりポイントカードを差し出したりするのだった。
大手スーパーにトリートメントを買いに行った時は、確かに大変だった。
行ってみたのものの、やっぱり今使ってる商品がわからないし、もしかしたら、フロアが間違ってるかもしれないから、買うのは無理だと言って、焦って帰ろうとする。ちょっと待ってと引き止め、店員さんを呼んで来て、今使ってるトリートメントのボトルの色や形状を母から聞き出し、なんとかお目当の商品を買う事ができた。
何が出来て、何が出来ないのか、さっぱりわからなかった。
何故、何にも出来ないと思い込んでいるのかも。
妹が、「うつの人に、頑張ってとか、元気だして、の言葉は禁句だって。心のコップが満水状態なので、汲み出してあげる。こちらから、あれこれ言っても、コップから溢れるばかり。だって」
と、経験者の方から聞いたアドバイスを伝えてきた。
頑張ってと言ってるつもりはないのだけど、出来てるんだからね、って励ますのもダメなんだろうか?同じ事になってしまうのかな。
混乱した私は、Nさんのアドバイスを思い出し、大丈夫、大丈夫作戦を考え出した。
「きっと、出来るよ。大丈夫、大丈夫。出来なくても大丈夫、大丈夫。」という具合に。
乱視がすすんだ母に、新しい眼鏡が必要だと思って、眼鏡屋に行った時も大丈夫作戦で乗り切った。
方向音痴な私は、母がいう店になかなかたどり着く事が出来ず、焦った母が、やっぱり眼鏡なんて作れないから帰ると車の中で叫びだしてしまったのだ。
私は、大丈夫、もう着くから、大丈夫、お母さんが言う通りの道で正しかったからと励まし続けた。
無事に到着した後は、母も必死で検査に耐え、フレームも選んだ。
眼鏡屋を後にした私は、「ね、出来たでしょ!」と思わずバンザイしたが、母は、「全然喜べない」と疲れた顔で言ったのだった。
病気は神様からの宿題
私は、病気は神様からのメッセージだと思っている。その人の考え方、人との接し方、思い癖など、何かしらがいけないところがあって、それを教えてくれていると。
それは本人だけでなく、家族も一緒に考え直すべき課題なのだ。
特にガンなどは、そういう意味合いで発症する場合が多い気がする。ただ、いきなり重い病気になる訳ではなく、様々な形でメーセージというか、気づきの機会はあるはずだ。だけど頑固な人や自分が正しいと信じている人はなかなか気づけずに過ごしてしまう。
たとえば、家族との揉め事や、ママ友とのトラブルの中で、自分が反省して自分を変えられるような人は、病気にはならないのだと思う。
今回の場合は、元気なのを良いことに、私たち娘が母をほったらかしにしてしまったなと反省をした。一人暮らしの寂しさが根底にあり、その上に暑さ寒さで人との交流が困難になってさらに寂しく、母の思い癖などがストレスを倍増させて発症してしまったと推測する。
と、いうことは、私は母に、ある言葉を言わなければならないのかもしれない。言いたくないのだが‥
出来れば母が自分で気づいてくれると良いのだけれど。自分以外の人から突きつけられると、その言葉はナイフのように刺さってしまう事を私は知っていた。でも、必要なら言わねばならない。この段階では、私はそう思っていた。
コブクロが教えてくれた
三月五日
朝、上向きだった気持ちが、夕方まで保てずに、母は悲しい夕方を必死で過ごす日々が続いた。ピンクの紙の言霊作戦は、少し枚数が増えた。
「◯◯しなければいけない」に大きく✖︎を付け、「◯◯したいからする!」に矢印を引っ張った。「できない自分を許します」も追加した。
自分が思う通りにこなせない事に、罪悪感を感じて落ち込んでいる事も多かったからだ。
落ち込む原因として、入れ歯の問題も大きかった。
母は以前、歯科大学の歯医者に通っていたのだが、遠くて大変なので、最近、近所の歯医者に変えて新しい入れ歯を作ったのだ。その入れ歯がなかなか合わず、せっかく食べる気になっても、噛むと痛くなってしまったり、デイサービスにはめて行くと、きつくて頭が痛くなってしまってまた落ち込んでしまう。
近所とはいえ、調整に行く気力の無い母に、私は古い入れ歯を使うように頼んでいた。
長年携わってきた、町内会の役員の仕事も、悩みの中で大きな割合を占めている事もわかってきた。少人数の町内会なので、会計の他に書記のような仕事も任されているようだった。
几帳面な母は、その名簿作りなどを、むしろ楽しみながら務めさせてもらってきた。
でも、今の自分には、集中力が必要な作業は出来ないと悩んでいるのだ。一度、役員を誰かに代わってほしいと打診してみたようだが、聞き届けられなかったらしい。
私が副会長さんに交渉にいって、母の任務を代わってもらった方が良いだろうと考えていた。今月が年度末だろうし、そろそろ動かねば、間に合わなくなる。
その事を考えていた私の耳に、付けっ放しのテレビからふいに言葉が聞こえて来た。コブクロのコンサートの録画放送だが、何故かなかなか歌わずに、一生懸命に観客に叫んでいた。
何度も、何度も同じ事を言っていた。小渕が一人で叫んでいるのだ。私に言ってるかのようだった。
きっとそうだ。私に届くように叫んでくれているのだと、根拠も無く確信した。
そして、一つの決心をした。
三月六日
「わかったわかった!コブクロが教えてくれた!」と母に朝メールした。
母からすぐに電話で「なんのこと?」と聞いてきた。
私「あのね、コブクロって知ってるでしょ。小渕と黒田。コンサート見てたらね、一人じゃ何もやってこれなかったって。ニ人だからできたんだって、何度も何度も言うのよ!コンサートなのに、歌も歌わないで、私が気づくまでずっと言ってるの!二人だから、辛い事も乗り越えられたって。だからね、町内会の仕事も、ニ人なら出来るんじゃないかって思って。私が手伝ってあげるよ」
すぐに反応はなかったが、母は多分電話を切ってからジワジワと喜んでいるはずだと確信があった。
夕方、実家に行くと、案の定、母は嬉しそうに私を待っていた。
母「あなたが手伝ってくれるなら、心配いらないわ。嬉しいわ。細かい作業は、やってもらえるものね」
私「うん、お母さんにやり方教わってね。必要な書類取り寄せちゃって、早くにかたづけちゃおう」
母「でも、役所からくる書類はいつも四月の終わり頃なのよ。それが来てから作成するのよ」
私「えっ!そうなの?」
思ってもみなかった。さっさと終わらせて、母の悩みを減らそうと思っての決断だったのに。今、困るのは、作成できるようになる日までは考えても仕方ないのに、きっと母は、毎日その事を考え続けるだろうという事だった。
明日は、三度目の心療内科の予約が入っている。担当が新しい先生に代わる予定だった。
放たれたナイフ
三月七日
新しい担当のY先生は、比較的「お医者さま」って感じで、白衣も来て、眼鏡をかけていた。
たどたどしくなりがちな母の話を、ふんふんと聞きながらパソコンに打ち込み、一通り聞き終わるとこう言った。
「休む事が苦手で、なんでも頑張ってきた人がなる病気です。薬の力を借りて、何も考えず、ボーッと二、三か月できれば、どんどん良くなります。いい加減な性格になれれば完治します。ありがちなのが、治る途中で、ボーッと出来ずにあれこれやってしまい、出来ない事でパニックに陥って落ち込んでしまう事。休むのって、難しいんですよね。頭を空っぽにしてみて下さい」
私は、目の前の霧がファ〜と晴れていく気がした。ピッタリの診断だと思った。今まで、暗闇の中、まさに暗中模索といった感じだったが、トンネルの出口から小さな光が差し込んだ瞬間だ。
病院から実家に戻った私は、やはり町内会の仕事は手放さないとダメだと考え直していた。
私「やっぱり、会計の仕事は、誰かに代わってもらおう。私、今から副会長さんの所に行ってくる」
母「え!だって、さっきは手伝ってくれるっていったじゃない」
私「そうだけど、それは病院に行く前の話じゃない。頭、空っぽにするなら、辞めなきゃ無理でしょ」
母は、仕方なく、預かっている他の台帳などを準備しつつも、諦めきれない感じだった。
書類を作る時期までに治す事は出来ないかと考えているのかもしれない。
「そうしたら治る?この仕事やめたら、治るわよね?」
私はドキッとした。あの言葉を言いたくなりそうになった。でも、まだ言わずにおこう。
「辞めないと、お母さん、書類が来るまで毎日考えるでしょ。違う?頭空っぽに出来ないでしょ」母は、その通りだと思ったようで、考えながら何回か頷いた。それでも、急には決心がつかないらしく、そわそわと私の周りを動き回る。そして、出かけようとする私にすがるように
「辞めなきゃ治らないのよね。辞めたら治る?どうしたら治る?やめれば治るわよね?」
と、迫って来る。
私はもう我慢できないと思った。お母さんが言わせるんだからね!
「そうやって、まだ、自分がうつだと認めたくないんでしょ。そんな事言ってたら治らないでしょうが」
「私が間違ってました。私が間違っていました。そう言って、涙をポロポロ流して」
「涙をポロポロ流して、認める事が出来たとき、初めて、その病気は役目を終えるんだよ」
自分の声じゃないみたいだった。私は泣いているのか。
母は、死にそうな顔をして泣いていた。お願い、お母さん、死なないで。
この日、私は副会長さんの所に言って話をし、その後、母の役員の仕事を違う人に引き継ぐ事に成功した。
歌っちゃえ!笑っちゃえ!泣いちゃえ!
大きな喪失感を感じながら、母は、なんとか頭を空っぽにしようとしているようだが、それもなかなか出来ずにいた。
うつの薬は、夜眠れるわけではないらしく、母は相変わらず睡眠導入剤を飲み続けていた。うつの薬のせいなのか、昼間はあまり頭が冴えないらしい。それが良いのかどうかは疑問だった。食事中などに、急に頭がクリアになると、次から次へと、いろいろな事を話し出す。
私「お母さん、話は後で聞くから、ご飯の時は食べることに集中しようよ。今、やっている事に集中するのは大事だよ。歯を磨く時は歯磨きに集中。歩く時は歩く事に集中!」
車で移動中など、悲しい思いに集中してしまいがちだったので、一緒に歌を歌った。「手をたたきましょう」などの簡単で明るい歌を。
「笑いましょ、わっはっは。笑いましょ、わっはっは。
わっはっは、わっはっは、ああおもしろい。」
一緒に大きな声で歌った。
ご飯はあまり量を食べられず、体力も落ちているのに、便秘がちで、その解消にまた体力を消耗してしまい、それに伴って気力も落ちてしまう。
実家に行かれない時は、日に何度も電話して
「白湯のんだ?こまめに飲んでね」
「夜はスープにとろろ昆布入れてね」
「ヨーグルトにオリゴ糖いれた?」
などと、便秘に効きそうなシリーズを常に腸に入れてもらうようにした。
実家からの帰り道は、母のネガティブなエネルギーに引っ張られてしまい、いつも重たい気分での運転になってしまう。
ある日、カーラジオのおしゃべりが煩く感じて切った。ヒーリングの曲のCDでも入れておけば良かったな。今は、良い音で癒されたい。
唇の内側があちこち痛い。歯を食いしばりたくないので、きっと唇を噛みしめているのだろう。
ふと、友達が作った曲の事を思い出して歌った。
青空の下で笑っちゃえ♫
鳥になって飛んじゃえ
思い切り生きるなら後悔しないよ
緑の丘で転がっちゃえ
・・・・・・・・・
今しかできない事が目の前にあるはずさ
ララランランララランランランラン♫
思い出せる部分だけ歌詞付きで歌い続けた。
涙が出て来て、泣きながら歌い続けた。
夜、ラインで友人に‥‥‥の歌詞を聞いてみた。
夕陽を見て泣いちゃえーだった。
そうか、泣いて良いんだ!
エネルギーチャージ
三月十日
どうしても疲れが取れないで困った。パートも急だが休ませてもらって、近所のマッサージも受けたというのに。もっと言えば、昨日こっそり一人で焼肉まで食べたというのに、身体がどんよりと重かった。このままでは、夕方また実家にいって、大丈夫大丈夫と母を励ます事が出来ない。
ふと、松の木はエネルギーが高いらしいから、元気を分けてもらおうかと考えた。でも、思いついた松林は少し遠くて、そこまで行く元気もない。そうだ、近くの神社なら、色々な木があるから、松の木もあるかもしれない。早速私は、実家に泊まる準備をして神社に向かった。
そこは、小高い丘の半分が神社になっていて遠くからだと、こんもりした森に見える、地元で人気の神社だ。今年のお正月には、初めて家族でカウントダウン初詣に来て、お汁粉もふるまってもらった。
普通にお参りをしてから、雑木林で松の木をさがす。神社の拝殿と雑木林が一体になって、なんとも清々しい空気に満ちている。
松ではないけど、とても大きな木が素敵と思えたので、そっと手を触れてみた。触れながら、その木の幹を見上げた瞬間、頭の中に突然言葉が入ってきた。
「しかとつとめよ」
えっ?!誰かなんか言った?私はグルリと雑木林を見回してみたが、誰もいない。佇んでその場のエネルギーをじっと感じてみた。何故だか、こちらの神社の神様が、母にうつ病を与えたような気がしてきた。
え、そうなんですか?だって、ちゃんと初詣にも来たのに、どうして?お母さんをうつ病にしちゃうなんて、神さま、ひどいです。それで、しかと努めよだなんて。
私はとても恨めしい思いがこみ上げてきた。
「ご存知のはずです。ご存知のはずです。」そう言って私は、泣きながら木にしがみついた。私が頑張っている事、神様はわかっておられるに決まってる。
「ご存知のはずです。ご存知のはずです。」私は木にしがみついたまま、しばらく泣いていた。
この時、神様は私にエネルギーを注いでくれたのだろうか。
夕方、私はすっかり元気になって、母を笑顔にする事が出来た。
ホワイトチェストナット
この頃、母のうつを治すのは、なんだか、神様から与えられた私の課題のような気がしていた。神社へ行って、それを確信出来た気がする。それは、私が自分を成長させるために乗り越えなければならない宿題だから、とにかく一生懸命やるしかないと思った。
ただ、課題というよりは、次々とヒントを与えられて、それに従って行動すると、良い方向に行くといった感じだ。どうしたら良いの!?と途方にくれて眠りにつくと、早朝にパッと頭の中に閃きがきて、ゴソゴソと布団の中でネット検索したり、何気なく口から飛び出した言葉が正解だったりと、次々にヒントが来た。
まるでテレビゲームの『ドラクエ』みたいに、あっちにヒントがあるぞー、今度はこれを調べろーと言われて、ハイわかりました! っと言って答えを手に入れる。そしてそれを武器にして、先に進むという具合だ。
それは、目の回るような忙しさだった。
そんな感じに手探りで解決方法を模索する中、私は旧知の友人と会う約束をした。
毎日忙しかったのに、どうしても会いたかったのは、やはり彼女がうつを治すヒントを持っていたからだろう。
三月十四日
そのT子さんと品川で待ち合わせる。
去年、ご主人の仕事の関係で三年間のアメリカ生活を終え、帰国している。半年前に一度会って、それぞれ同い年の子供たちの近況など話が尽きなかった。だが、この半年で話したい事がさらにいっぱいたまってしまった。
母がうつになった事も告白した。うつは、頭を空っぽにすれば治ると言われているのに、母は、空っぽにするどころか、次から次へと悩み事が尽きず堂々巡り、と嘆いた。
するとT子さんは、「それって、まさにこれじゃない?」とスマホを検索して、あるページを見せてくれた。ホワイトチェストナット。何それ?
バッチフラワーエッセンスのレメディのひとつだという。
バッチフラワーエッセンス。それがどんなものであるかは大体は知っていた。花のエネルギーを転写した液体で、心に作用する効果がある。
T子さんとは、子供たちが幼い頃、なるべく薬を使わない、自然に沿った子育てをしたいという共通の思いで、共に勉強したり実践したりした仲である。私も、東城百合子さんの自然療法や、小児鍼などは取り入れていたが、その頃日本に普及し始めたフラワーエッセンスまでは勉強していなかった。彼女はその頃からおそらく勉強して生活に取り入れていたのだろう。アメリカでは、フラワーエッセンスはドラックストアなどで、サプリメントなどと一緒に普通に販売している、極めて一般的な感じだったと教えてくれた。
ホワイトチェストナット。それは、母のうつを治してくれる特効薬のような気がして来た。
フラワーエッセンス
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家に帰ると、早速ホワイトチェストナットを購入するため、ネットで調べてみた。
イギリスのバッチ博士が商品開発したので、バッチフラワーという名前であることは知っていた。効果別に三十八種類のレメディがある。ホワイトチェストナットは、その中のひとつだ。今はバッチフラワー以外のメーカーもあるようだが、基本の三十八種類は普遍だ。
フラワーエッセンスが日本に普及し始めたのは、多分西暦二千年の前半くらいだと思うので、現代ほどはインターネットも普及していなかった。フラワーエッセンスを学んだ、志ある人が、代理店のような形でアドバイスしながら販売していたのを知っている。今でも、個人セッションでカウンセリングしながらエッセンスを販売している方のサイトもいくつか見うけられた。が、サイトの中で使い方や処方のアドバイスを掲載しながら販売もしているタイプが主流だった。どのレメディを使えば良いかがわかってさえいれば、超大手のネットショップでも買える事もわかり、驚きだった。
あるフラワーエッセンスのサイトで、Tさんが勧めてくれた「ホワイトチェストナット」を調べてみると、『ぐるぐる思考。同じ心配事をずっと考えてしまう人の思考をコントロールできる』と書いてあった。まさに、これだ!私は即、購入手続きをした。
フラワーエッセンスは、小さなスポイト付きのボトルに入った液体で、基本的には一回に二滴ずつを一日四回くらい飲用していく。二週間くらい続けると、いつの間にか気持ちが楽になったと気づく人が多いらしい。一日でも早く飲み始めて欲しいと切実に考えた。
もう一つ、「ロックウォーター」『融通が利かない思考を柔軟にする』も買って、他にも何か、良いエッセンスがないか、サイトで勉強する。
ガイダンスのような本はないかと探してみたが、2001年発行の中古の物しかなかった。とりあえず、購入しよう。
そのサイトの中で、心理テストをして自分にあったレメディを診断してくれるコースがあった。すごい!確かにここまでしてくれるなら、新しいガイダンスの本は出版の必要はないのかも。早速質問に答えて診断してみた。
私に必要なレメディは、「バイン」『自分のやり方で支配せず、気配りのできるリーダーになれる』だった。なるほど、そうなのか。自分の事ってわからないものね。バインなら、さっき、お母さん用に確か購入ボタンクリックしたはずだから、私も飲んでみよう、と思った。
この時、私は「バイン(Vine)」と「パイン(Pine)許し」を勘違いしていた。この勘違いは、後にミラクルを生み出す事となるとは。
人前などで、緊張したりパニックになってしまった時用の「レスキュー」という、いくつかのレメディをブレンドしたエッセンスには、いろんな形状があった。その中で、キャンディタイプがあったので、買ってみた。スポイトで飲むよりは抵抗がないし、人と会う前に舐めておけば、不安にならずにすむだろう。
クリームタイプもあったので、もう、とにかく 買っておこう!と、勢いでキーボードを操作した。三十八種類のレメディを全部読むのは大変だったので、私はこの後何日かかけて熟読し、母に必要そうなレメディを八種類購入した。
グルグル魔王との戦い
三月二十二日
母の体調や、諸々の雑事が落ち着いたので、いよいよフラワーエッセンスを始めるには良いタイミングだと判断した。
レメディを飲むに先んじて、うまくレスキュークリームを渡す事ができた。母がちょっと腕にできものがあるというので、これ塗れば治るよ、と、さりげなく差し出したのだ。
そこだけ塗ってクリームを返そうとする母に、「皮膚の乾燥にも良いから、使ってみて」と言うと、母は素直にレスキュークリームを受け取った。私は内心、「ヨッシャー!」とガッツポーズ。
レメディを飲む方は、少し難題だった。もともとの血圧の薬に加え、うつの薬や便秘の薬など、飲むタイミングなどで散々苦労しているのは私もよくわかっている。
夕飯を食べながら、レメディの話を少しすると、案の定、「もう薬はたくさんよ」と拒絶反応。
私「これは薬じゃないのよ。おまじないかな。お味噌汁に入れたっていいんだから」
と言って、ホワイトチェストナットを二滴、お味噌汁に入れた。その後、寝る前に飲む薬用の水にも二滴たらし、なんとか飲んでもらった。
やれやれ、やっと二回だ。一日に四回、二週間続けるのはとても大変そうだ。そんな事を考えていたら母が呟いた。
母「今日はあなたがいてくれるから、安心して眠れるわ」
私「やっぱり一人だと怖くて不安なの?」
母「そうじゃないけど、独居老人だからね、ご近所さんが見守ってくれるから。だから、夜眠れなくって、そのせいで朝寝坊なんかすると、家の雨戸がなかなかあかない、何かあったんじゃないかって、心配かけちゃうでしょ。それが不安なのよ」
あ、そういう事!だから、薬が効いて朝寝坊した時、ものすごく焦ってたんだ。そして、朝寝坊したらどうしようどうしよう!と不安がってるから、返って眠れずにいるであろう事も理解出来た。
私「じゃ、明日、ご近所さんにちゃんと言っておこうよ。今は薬が効いてしまうことがあるから、朝、十時くらいまでは雨戸が開かないでも心配しないでくださいって。そしたら安心して眠れるでしょ」
母は一応了承し、明日私が言いに行く事になった。
そしてなんと、母は続けてもうひとつ、不安要素を話し出したのだ。それも一緒に話し合い、良い方法を考え出すことが出来た。不安要素が一編に二つも解決した事になる。
すごいすごい!これってホワイトチェストナット効果?人によって効き目が出る日数はまちまちらしいけど、母は至って早く出るタイプのようだ。
この調子でいけば、グルグル悩むのはやめて、夜もゆっくり眠れるようになるのかも。
大きな希望を感じながら、眠りについたこの夜、私の期待を裏切るとんでもない事が起きてしまった。
私は遅くまでネットで、またフラワーエッセンスの勉強をしていた。
レメディは、同時に六種類まで飲用してよいらしいので、その方法を確認していた。一回り大きなボトルを購入して六種類のレメディを入れ、水やブランデーなどで希釈して使うという事を確認した。明日はブランデーを買っておこうと考えながら、やっと眠りについたのは夜中の一時過ぎだった。
うとうとし始めた時のような気がする。母の叫び声で目が覚めた。
私「どうしたの?」
母「怖い夢見たよー!助けてー!」
普段は、私が寝ている二階には上がってこないが、今夜は必死で上がってきて、私のふとんに入り込み、叫び続ける。
母「怖いよー!殺される夢見たよー!こわかったよー!」
私「殺される夢?誰に?」
母「女の人だった!怖い顔してたー」
アチャー!なんて事だろう。でも待てよ。確か夢占いでは、良いと思う夢は悪くて、悪い夢の方が吉夢なんじゃなかったかな。慌ててネットで検索すると、やはり、殺される夢は、“新しい自分に生まれ変わる”と出ていた。
私「お母さん、それって、とっても良い夢なんだよ。新しい自分に生まれ変わる吉兆だよ」
母「でも怖かったもん。とっても怖かったよ」
興奮した母を落ち着かせてまた眠るまでには、しばらくかかってしまった。
許しの奇跡
朝、起きた母は、当然目覚めが悪く、案の定、もうフラワーエッセンスは飲みたくないと言い出した。そう言うだろうとは思っていた。うつの薬だって最初は飲みたくなかったけど、仕方なくちゃんと飲んでいるからそれで良いじゃないかというのが母の言い分だ。うつの薬なら怖い夢は見なかったと。
だけど、たとえうつの薬で治ったとしても、それは根本的な解決にはならないと、私は感じていた。何かを変えなきゃ、また同じことの繰り返しなんじゃないだろうか。
でも今日はもう諦めるしかなさそうだ。そう思った私は、せめて怖い夢はフラワーエッセンスのせいじゃないと証明するために、帰り際に母の前で自分がレメディを飲んで見せた。
私「自分で、こういう自分になろうっと思って飲むと、効果あるんだって。えーと、私は、ついついキツイ言葉を使っちゃって、人を傷つける事があるから、きちんと言葉を配慮できる自分になります。」
そういって、バイン(Vine)と思い込んでいたパイン(Pine)を水に二滴垂らして飲み干した。
帰り道の運転をしながら、なんだか、胸が苦しい。なんだろう。初めての感覚だ。痛い気もするが、やっぱり苦しいというのがピッタリの辛さだった。一生懸命深呼吸をした。なんだか、叫び出したいような苦しさだった。
自宅に帰る頃にようやくその苦しさが収まり、それと同時に、ふと疎遠になっている従姉妹の事が頭に浮かんだ。ちょっとしたメールでのやり取りがきっかけで気まずくなり、連絡を取れなくなっていた。私が悪い訳でないし、私から謝るのは筋違いの様な気がして、意地になっているうちに、時が過ぎてしまっている。急に、私から謝ろうと思い立った。今なら素直な言葉が出て来そうだ。
夜、私は心を込めて従姉妹に謝りのメールを送り、無事に仲直りをする事が出来た。
甘えん坊さんとの別れ
三月二十四日
午後三時頃電話する。
私「もしもしー」
母「もしもしー」
上ずった高い声。甘えん坊のすみ子さんだ。
最近、母は幼い女の子のような話し方をする事が度々あった。私は、うつで自信を失った母の、魂というか精神的な本質が、子供の頃みたいに小さくなってしまっていると推測している。それで、母が甘えん坊さんになっている時は、こちらが母親のように接していた。
お弁当屋さんとも生協さんとも話せたと母は嬉しそう。
母「お弁当屋さんが来た時は、家の前を歩いていたから、きっと元気そうに見えたと思うよ。生協さんが来てね、今日はお休みですかっていうから、サボっちゃいましたって言ったんだ。
それからね、牛乳また変更します。何度もすみませんって、言えたよ」
そうだ、今日は本当はディサービスの日だ。
今までなら、こんなに休んでたら変な人になったって思われちゃう。そしたらまた行かれなくなっちゃうってメソメソしてたのに。
生協さんとも顔合わせるの辛いって言って、会わないでよいように、牛乳を変更する事、緊張しながら震える手で一生懸命書いてたのに。
私「えー、すごいすごい! そんなにしゃべれたの?」
母「うん、そしたらね、わかりました。牛乳変更しておきます。そのほかに注文も書いてあるから、来週はいっぱい来ちゃいますよ。だってー!あなたもいっぱい飲んでね」
と、弾んだ声。
いっぱい来ちゃったらどうしようってメソメソしてない。
私「うん、わかった。いっぱい飲むよ。大丈夫。よく歩いたし、しゃべったから、疲れたんじゃない? 少し寝た方がいいかな」
母「うん、でも今日は三回も寝ようとしたけど、眠れないんだよ。マッサージチェアでいいかな、お相撲見ようかな、どうしたらいいかな?」
甘えん坊らしく、可愛く聞いてくる。
私「そうだね、お相撲見るのもいいけど、まだ早いし、少し横になってからでもいいかな、眠れなくても」
母「うん、そうよね、そうするね」
夕方、妹と作戦会議。ほめほめ作戦の確認。失った母の自信を復活させるために、二人でガンガンほめる作戦を考え出したのだ。
自分が間違っていたと認めなければ、うつが治らない、と言って母を泣かせた私が、今度はひたすらほめ称える事にした。「お母さんは立派よ。素敵よ」「お母さんの娘で誇らしいわ」「人生の目標よ」などと、例文をあげて、とにかくほめてねと伝えた。明日、実家に行ってくれる予定なので、いっぱいほめ言葉を言えるはずだ。
お相撲が終わって少し経った頃、母に電話。あれから何かあって、めそめそしてなきゃいいけど。
私「もしもしー」
母「あら、何。なんかあったの?」
! ん、通常のすみ子さんか。さっきとはかなり違った低いテンションだ。
なんかって。またメソメソしてないか、心配で電話してるんですけど!
私「え、ないけど、お相撲見たかなと思って」
母「見たの。大変なことになったよ。」
稀勢の里が負けて怪我したこと。ほかにも少し話して、じゃね、とあっさり切る。
?!?なにこれ。まるで、以前のようじゃないか。まるで、うつになる前の。いや、むしろもっと以前の、頼もしかった母の感じ。。。
私はしばらく、呆然としてしまった。
妹から電話がきた。
妹「お母さんが、フラワーエッセンスの事、不安がって聞いてきたよ。夢見が悪かったからって。薬が増えるのもうやだって」
やっぱりそうか。
夜、落ち着いてから、私は妹にエッセンスの説明を文を区切って長々とラインで送る。妹からも勧めてもらえば、母も飲む気になるだろう。薬ではない事。私も飲んだから従姉妹に謝れた事、お母さんも、ニ回飲んだだけで、ものすごく思考が前向きになった事。フラワーエッセンス専門のサイトも貼り付けた。
なかなか妹のラインは既読にならない。やきもき。
十時くらいになってやっと見たらしく
妹「多分、自然のいいやつと思うよって言ったけどねー」
と短い文章。
それだけ! 全く、サイトは見て勉強してくれたのかしら?
私は、妹に貼り付けたサイトを開いてみた。あれ、これ商品の説明じゃなくて養成講座専門のサイトだった、間違えちゃった。
あわてて、もっと商品がわかりやすいサイトを探してまた貼り付ける。それを開いて改めてエッセンスの説明を見ながら、ふと気がついた。あ、飲むだけじゃなくてお風呂に入れたりマッサージオイルに入れてもいいんだったっけ。
その事を妹にラインしたが、もう寝ちゃったらしい。いっつもそうだ。一緒に勉強してくれるわけではなく。私に気づきだけ与えてくれる。
母は手がしびれてると言うから、オイルに混ぜて使ってもらうのがいいかな、オイル買おう。あまり大きくない方が使いやすいよね。本当はクリームに混ぜ込めれば使いやすいのに。
あ!思い出した。レスキュークリームを母に渡してあったんだ。ひょっとして、あれ使ってるんじゃないかしら?!それでよくなったんじゃないかしら?!。
私は夜中に一人興奮していた。
そして、その日を境に甘えん坊のすみ子さんはぷっつりと姿を消したのだった。
汲み出す? 溢れるほど注ぐ!
三月二十五日
今日の母の様子を、妹に電話で聞いてみる。日課になっている母からの朝一電話では、まぁまぁ調子は良いと感じていた。
妹は、悪くはなかったけど、なにかとネガティブで後ろ向きな発言ばかりだったと告げた。
私「ほめてくれた?」
妹「うーん、今日はほめるところがなかった」
(だからほめるんじゃん!)
私も毎日ほめてあげられないし、自分で自分をほめてもらうしかないか。そう言えば、友人が自分でほめてどんどん幸せになるって提唱している団体の活動をしてたっけ。なんて名前だったかな。
『自分でほめる』で検索すると、けっこうたくさん同じようなサイトがあった。基本的には夜、日記に自分のほめるところを五つくらい書き出すらしい。そうすることで素晴らしい人生になると。自分のハードルが高い人はなかなかほめられないけど、ハードルを低くして、どんどんほめた方がいい。なるほど。
夜がいいっていうのは、寝てる間に潜在意識に染み込むからかな。勉強も夜やったことは憶えてるもんね。
三月二十六日
母は、食事はかなりいろいろ食べられるようになり、体重も多少戻してきた。
ただ、気持ちのほうは、大丈夫という思いと、やっぱりダメだという思いが交錯しているようだった。悲しみのすみ子さんが頻繁にあらわれる。
この頃の母の様子から、私は、以前妹がアドバイスを貰ったという、コップの水の話を考えていた。うつの人は、コップの水がいっぱいだから、汲み出してあげるとよいという事だった。でも、今思うのは逆の事。コップの水が減ってしまい、魂も子どものように小さくなってしまっているので、どんどんと水を注ぎ込んであげると良いのではないか、という事。
アドバイスをくれた人の意味する水とは、種類が違うのかもしれない。私が感じたのは、言わば『幸せのコップ』の水だ。ほめたり、大丈夫!と言い聞かせたりしてその水を満タンにしておけば、多少の困難は乗り切れるのではないだろうか。
そう思った私は、フラワーエッセンスの中で、『大丈夫』の励ましに一番近いと感じた『ゲンチアナ』を、最初はこっそりと母が入るお風呂のお湯に入れた。何回か入れた後、悪い夢も見ない事を確認して、実はフラワーエッセンスをお風呂に入れたと告白したところ、母は、お風呂なら大丈夫と、喜んで自分で入れるようになってくれた。
また、母が、自分はこのまま認知症になってしまうのではないかとの恐れを抱いていると感じた私は、キッパリと、認知症ではないと母に宣言した。
うつの症状は人それぞれだろうが、仮性認知症と言われる物もあり、仮性かどうかの見極めが難しいので、心療内科の先生も、認知症という言葉は回避しているらしい。その曖昧さが、かえって不安を大きくしている気がする。母も、何を着たらよいか、何を食べたらよいかがわからなかった。『小さな決断が出来ない』という、仮性認知症に当てはまっていた。でも、それはうつが治れば症状が消えるとネットなどで確認した上で「今、お母さんが心配している認知症っぽい症状は、みんなうつのせいだから。絶対治るから、安心してね」と、電話で告げた。
これは、とても効いたと思う。コップの水を随分満たす事が出来たようだ。でも私は、もし、認知症になったって大丈夫なんだよ、と言う事も伝えた。どちらでも大丈夫! が大丈夫作戦の基本だから。
たくさんのデビル達
三月二十八日
銀行の用事などを母と一緒に済ませ、私は自宅に戻ろうとしていた。帰り仕度をしている私に、母が次の歯医者の予約の事で、何度も確認してきた。
母「じゃあ、予約した木曜日に来てくれるのね」
私「そうよ。だから、木曜の朝食は新しい入れ歯で食べてみてね。どんな具合かすぐ報告出来るから」
少ししてから、また聞きにくる。
母「やっぱり、前の日に一度試してみてもいいかしら。次の日に診てもらえるなら、少しくらい痛くなっても平気だと思うわ」
私「平気ならそれでもいいし。だったら、お昼に使ってみて、痛かったら午後行ってもいいんじゃない? 痛ければ予約無しでも来ていいって言ってくれたよ。明日なら、天気も良さそうだし、一人でも行かれるでしょ。」
母「予約無しでもとは言ってくれたけど、せっかく、木曜日のこの時間ならって、なんだか無理に入れてくれたみたいなのに…」
私「だったら、やっぱり木曜日まで待ってよ」
いよいよ帰ろうとする私に更に聞いてくる。
母「入れ歯して、食べるんじゃなくて、はめて様子みるだけだったら、大丈夫かしら」
私「もう、好きなようにして〜」
また始まった、母の堂々巡り思考に、私は降参して逃げるように帰宅の途に向かう。
ただ、私には、堂々巡りの正体が少し見えてきた気がしていた。
母の頭の中 ー想像ー
頑張らなきゃデビル「せっかく作った入れ歯だもの。使ってみなきゃ、調整する事も出来ないわ。多少痛くたって、頑張らなきゃ」
どうしようデビル「でも、それで痛くなったらどうするの? 痛くて、また眠れなくて、夜中に辛い思いしたらどうするの? どうするの?」
言われちゃったデビル「だけど、ずいぶん前に作った入れ歯、まだ使えないのって、この前〇〇さんに言われちゃったじゃない。早い方がいいわよ」
こうしなければいけないデビル「自分が木曜日って言ったから、無理してその時間に予約入れてくれたんだもの、その通りにしなきゃいけないわよ」
そんな事言えないデビル「そうよ、予約無しで行ったら、予約の人を待たせる事になって、悪いじゃない。そんな事、出来ないわよ」
どうしようデビル「じゃあ、どうするの? どうするの?」
堂々巡り(グルグル)デビル「そうだそうだ。お前たち、もっともっと戦えー。誰が強いか、見せてみよ。(笑)」
エンジェル登場
三月三十日
母の歯医者で待たされたので、スマホで気になっていたフラワーエッセンスのサイトを見て待っていた。うつの改善にはリラクゼーションと深い睡眠が有効と書いてある。
そう、それは心療内科でも言われたけど。頭を空っぽにしてほしいと思ってるホワイトチェストナットは、夢の件があるから、まだ怖くて使えない。なのに、母は昨夜、気持ちがポジティブになって来たお陰で、今度はやりたい事が次々浮かんで眠れなかったという。
全くグルグルの奴め!今にやっつけてやるからね。
希望のキーワードから適切なエッセンスを探してくれるコーナーがあったので、リラックスで検索してみる。どれもピンと来なかったが、目的別にいろいろブレンドしてあるエッセンスがある事を知った。
睡眠で検索してみる。『ピースフルスリープ』。これだ!
成分を見てみる。ハウライト・ラピスラズリの文字。え? 知ってる言葉。パワーストーンだ。
以前、パワーストーンに非常に興味をもって使っていた。ハウライトは健康のための石。ラピスラズリはかなりスピリチャルなエネルギーの高い石と記憶している。基本的にパワーストーンを身に着けるのは、石のパワーを借りて、自分の夢を叶えていくため。
娘がまだ小学生の時、テニスの試合が怖くて立ち向かっていかれない弱さがあった。自分の弱さを自覚させ、勇気を持てるオルゴナイトをもたせて、強い心で立ち向かえるよう、頑張ろうねと励ました事がある。娘も納得はしたものの、大人のようにブレスレットはしたくないし、まだペンダントなどもおかしい。大きめの石を買って、袋に入れて持ち歩かせようか悩んだり、部屋に置いて寝る時に手に持って強い自分になるぞ、と言わせたり苦労をした。
ただ、石が何かしてくれる訳ではなくて、自分でそうしようと決める事が大事で、石はそのお手伝いをしてくれるにすぎない。
こういう自分になりたいと自覚することで、目的の半分は達成していると学んだ記憶がある。
フラワーエッセンスも、同じ事なんだと理解した。石のパワーや花のエネルギーの助けを借りて、なりたい自分になる。エネルギーを転写した水を飲むなら、石を持つより、なんだか効きめ大きそうよね。
私は、ピースフルスリープを購入し、もう一つ、デビルをやっつる前に天使を呼ぶ事を思いついた。パワーダウンしている時に、いきなり戦わせたから、殺される夢を見ちゃったのかもしれない。オーク(真の強さ)。これだ! 頑張りすぎる人が休む事を受け入れ、心の体力を取り戻す、という説明書きが心強い。
まさに、母の現状は、心の体力を失っている状態と言えるだろう。細かい作業も、出来ないのではなく、出来るまでの時間が我慢出来ないと言った方がピッタリくる。休むにも、待つにも、心の体力が必要なんだ。
この時の私の判断は正しかった。後日、改めてフラワーエッセンスのガイド書を読んだら、ホワイトチェストナットは、オークと一緒に使う、と書いてあった。あー、やっぱり!ちゃんと先に勉強すべきだった。
抜けた!
四月一日
大きな要因は三つあると思う。
一つには、母が、自分が何故うつになったかをはっきり自覚し、それを治したいと思ったこと。
そもそも、うつは、自分はダメだと思い込む病気だとわかってはきたが、治りかけのこの頃も、母は何かと思い込んでる事があるようで不思議だった。もう食事は普通に摂れているのに、まだ食べられないでいると言ってみたり、??と感じるような発言がいくつかあった。
ついには、指の先がどうしても痛すぎて、きっとリウマチが再発したに違いないと言うので、訝しく思いながらも、E先生の内科に行ってみた。先生は、驚いた顔で、痛いと差し出された母の指先と、母の顔と私の顔をマジマジと見てから、母の両手を握ってこう言った。
「指は、痛みはあるかもしれないけど、少し大げさに感じやすくなってるみたいだね。リウマチの痛みは、こんなもんじゃなかったでしょ。高熱も出たでしょ。きっと、他の悩みが少し解決したから、一生懸命に悩みを探してる。でも、今日この診察室に入ってきた瞬間から、この前より元気になったのがはっきりわかるくらい、良い表情をしてるんだよ。治ってきてるよ。まだ少し、心療内科の先生を信頼出来てないのかな? いい? どんな医者でも、患者さんを悪くしようなんて人はいないんだよ。みんな、よくしてあげようと一生懸命なんだよ。もっと信頼してごらん。睡眠導入剤は、もう飲まなくてよいのだからね。どうもね、そのリウマチをやった頃、一年前くらいかな、その頃から、悪い方向に考えを持っていく傾向があるんじゃないかな。そんな気がするよ」
指の痛みを否定されなかった母は、素直に先生の言葉を聞いていたが
「え! じゃあ、私は自分の後ろ向きな考えのせいでうつになったんですか?」ととてもビックリしたように叫んだのだった。
二つ目はE先生に言われた通り、やっと母が睡眠導入剤と決別した事。
後に母が飲んでいた睡眠導入剤を調べてみたら、セロトニンを減少させる作用があるという事がわかった。なんという事だろう。母は、眠るために一生懸命うつを促進する薬を飲み、うつになってからも、やめられずにいたのだ。薬に頼りがちな現代医学の怖さを改めて感じた。
そして、三つ目、私が母の入るお風呂にタップリの『オーク』(真の強さ)『ゲンチアナ』(励まし)のレメディを入れた事。それを母にきちんと伝え、母は喜んでゆっくりと湯船に浸かったそうだ。
二つ目と三つ目は、母がN先生に言われたように、治してあげたいと思っている心療内科の先生や私の気持ちを素直に受け入れた事の表れに他ならないと思う。
朝、電話の向こうから興奮した母の声が響いた。夜中に汗びっしょりかいて、パジャマを全部着替えて大変だったと言う。
今まで、寒い寒いと言って、布団をたくさんかけても寒くて、ストーブをつけたまま寝ていた。
いかにも、血の巡りが悪そうに、指先が痺れていたのに、昨夜は着替えなければならないほど汗をかいたというのだ。やったー! と私は飛び上がって喜んだ。
この日、一つの生命体としての母のエネルギーが蘇った。気が巡り、血液も巡りはじめた。
増えろ!幸せホルモン
パートの仕事を辞めた私は、家族に了解を得て、しばらく実家メインの生活に切り替えた。今まで、実家に週二日ペースで通っていたのを、逆に、実家から週二日自宅に通った。
母のデイサービスも、当分お休みする事にして、まずは体力作りと入れ歯の調整で過ごす。
母に、歩ける所まで歩いてもらって、迎えに行ったり、坂道を転ばないように、二人で腕を組んで一生懸命に歩いたりした。
坐禅を一緒にしてみたら、十五分くらいは続ける事が出来た。すごい進歩だ。
気功も一緒にやった。時々、一人でもやっていたと言って、楽しそうに身体を動かす。
最後の『氣』をイメージして立っている時も、自分の呼吸に集中している母の様子を感じる事が出来た。誘導のナレーションの「自分は宇宙であり、宇宙はそのまま自分である事を感じましょう」という言葉に、何故だか私は涙が出てきて、感謝の思いでいっぱいだった。
神社にも行って神様にお願いもした。氏神神社の他にも二ヶ所回った。母は、この時初めて
「どうか、神さま、うつを治してください」
と、言葉に出して言えた。
お風呂のおまじないも毎日欠かせない。
オークとゲンチアナの他に、母の思い癖を前向きに変えるレメディを四種類混ぜて、スペシャルボトルを作り、毎日お風呂に入れた。もちろん、ホワイトチェストナットも、少し多めに入れた。グルグルの奴め、参ったと言え!
母は湯船のお湯を洗髪にも使っているらしい。
自分をほめる日記も毎日書いてもらった。ほめ方のヒントをメモ書きで渡す。
「今日の私、頑張った! エライ!」
「こんな事も出来るようになった! 素晴らしい私!」
など。そんな事出来て当たり前と思わず、ほめる事が大事よ。
本能的とも言えるバームクーヘン作戦を、母が勝手に実行していたのにも驚いた。
(夜中に眠りながらバームクーヘンをなんと、一袋食べてしまった!)
そんなに好きでもなかったチョコレートやチーズの他にも、玉子や穴子など、高たんぱくな食品を母がやたらに食べたがるので、不思議に思い、ネットで『うつと糖質』で検索してみる。
『脳内のセロトニン量はトリプトファンの摂取に依存する。トリプトファンは食肉、卵、魚、チーズなどに多く含まれる。そして、摂取するだけではなく、脳内に運ぶ為にはブドウ糖や砂糖などの糖分が必要』
なんと、母はなんの知識もないのに、脳のセロトニンを増やすのに効果的な食品をしっかり選んでいたんだ! おそるべし自然治癒能力と言うべきか。
どうやら、母は随分前から、糖質はよくないと誰かにアドバイスされ、ご飯や甘い食べ物を極力控えていたらしい。その頃、確かに糖質抜きダイエットが流行っていた。結局その事も、母にとっては、うつになる要因の一つとなってしまった訳だ。
多くの人が、しっかりした知識もなく、いや、無いからこそ、テレビなどで流れる健康法を信じて、周りの人に拡散する傾向はあると思う。万人に適するとは限らないのだが。母の場合、せっかく今は本能に従っているが、いずれまた情報の海に出なければならない。
そこで私は、母に鍼灸院に通ってもらう事にした。
東洋医学の確固たる養生法に基づいて、季節ごと、その時々の日常の注意点や、何を食べたら良いかなど、母に合ったアドバイスを受けながら、体も免疫力が高まっていくと期待出来る。
幸い、とても良い鍼灸院が近くに見つかって、今も通っている。
そんな日々を過ごしたお陰で、母の脳内には、きっとセロトニンがどんどん増えているのだろう。あっと言う間に、母は元気になっていった。セロトニンは、別名『幸せホルモン』と呼ばれているらしい。もっともっと増やしちゃえ!
悲しみのすみ子さんは、もうほとんど姿を表さない。代わりに、心配なすみ子さんが時々登場する。
そろそろ私は気がついていた。グルグルの奴はボスじゃなかった事に。
お風呂のおまじないを一週間おきに考え直し、その時その時に必要と感じるレメディに変更する。ホワイトチェストナットを外している自分に、最初びっくりした。でも、母の様子から、もうグルグルの姿は感じられなかった。奴は、ただの手下だった。心配する心、どうしようデビルが黒幕だと思い至る。恐れや不安の感情こそが、すべてのネガティブな感情を呼び起こす、魔王だったんだ。
春の訪れ(娘道)
すっかり元気になった母は、五月のゴールデンウィークには自分の快気祝いを企画し、私の家族と妹家族にお寿司をご馳走してくれた。
そして、運動量重視のディサービスに通い始めると、夜も良く眠れるようになり、体力もついてきた。
うつの薬の副作用で、夜中に手足が痙攣して眠れないと言い、一人で心療内科に乗りこんだのには驚いた。結果、うつの薬をやめる事になったが、よく言われるぶり返しは今のところない。
私や妹がこまめに実家に行って母と過ごす時間を増やし、あまり不安を抱かせないようにしているお陰もあるだろう。
考えてみたら、母の世代は、初代・戦後主婦というか、核家族化の開拓者みたいなものだ。
必死で子育てをして働いているうちは良かったが、まさか高齢になって、一人暮らしをするとは思ってもみなかっただろう。一人暮らしで幸せな最期を迎えたという方の、良い見本も、あまり情報が無い。自分の先行きに不安を感じるのは当たり前だと思う。かといって、一人暮らしの気楽さにも慣れてしまっている。
昔の、核家族になる前の日本においては、長生きすれば、ご隠居と呼ばれて離れなどで寝起きし、お金の心配や食事の心配もなく、気楽に余生を過ごせたのだと思う。
それで私が考え出したのは、お一人様ご隠居生活作戦。一人暮らしの気楽さはそのまま、一人で抱える心配を減らしてあげたらどうだろう。
こまめに実家に通い、必要に応じて、お金の管理やその他、精神的負担になる事を取り除いてあげる。その時その時の状況を判断しながらサポート。自分としては、母の残りの人生の伴走をするとイメージしている。名付けて『娘道』邁進中。
心の健康診断
今までフラワーエッセンスの存在は知っていたけど、心に問題があって特殊な症状を起こしている人が使うのかと思っていた。
でも、心に問題がない人なんて、いないよね。特化した症状にはなっていないというだけで、みんな心の未病みたいなもの。
その段階で、もっと自分の心を見つめて、嫌な自分をしっかりと受け止め、なりたい自分になれたら、心は平和でいられるんじゃないかな。
昔の日本人はきっと、毎日の生活の中で、食べ物に感謝してお料理したりお天道様に感謝して掃除したりしてた。心をこめて野菜を切ったり、はたきをかける、雑巾かけをする。洗濯物をごしごしする。絞る。そういう作業に集中することで、座禅は組まなくても自然と無になれる時間が持てて、自分を見つめる時間だったのではないだろうか。
今の日本人は毎日忙しくバタバタと生きて、自分の心を見つめる時間がなかなか持てない。
自分の心を見つめることなく、嫌な自分でのまま、人とトラブルを起こしたり、付き合えなくなったり、やりたい事が出来なかったり。
もっと、ちゃんと嫌な自分を受け止め、なりたい自分になる努力をする事が大事なんじゃないかな。そしたら、人間関係もうまくいって、自分の生きづらさが減るんじゃないかな。夢が叶いやすくなるんじゃないかな。いざこざも減るんじゃないかな。戦争も無くなるんじゃないかな。
以前私が考えていた、間違っている自分を否定するのではなくて、良い自分はほめて嫌な自分は変えていく、だね。こっちの方がいい。
でも、嫌な自分を変えることはそんなに簡単なことじゃない。難しい時は、フラワーエッセンスの力をかりて、プラス思考に変えられたら、いつの間にか好きな自分になれるよ、きっと。
もっとらくに幸せになれるし、人生が楽しくなる。うん、きっとそうだよ。
未来はいくらでも変えられる。
未来の自分を幸せにするのは、今の自分なのだから。
おしまい
最後に
当たり前に思っている事ほど、見直してみると、幸せの魔法が使えるかもしれませんよ
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