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今までとこれから

(※3月の話です。)

私が日本に帰る事が決定したのは、旅立つ日の二日前だった。

つまり強制帰国という指示を受けてそれから荷造り、移動、ご近所挨拶も含めて二日間ですべてを終わらせなければいけなかった。あたふたと準備の方はなんとかできても、心の整理はなんだかうまくできていなかった。ずっとぼんやりしていた気がする。一方でどこか冷静でもあった。ほっとしているようにも感じた。そういった複雑な心境を感じながら、自分の中にある、そういう様々な感情を取り出して見つめる作業をするのは早すぎる気がしていたし、時間も無かった。だから、ただ淡々と荷物をまとめた。

急に明日、首都へ行きその次の日には日本に向けて旅立つことになったと伝えると、周りの反応は様々だった。関わった人全員に挨拶できるわけでもなかったから本当に数人ではあったけれど、ただびっくりして苦笑いする人や泣きそうになるひと、悲しそうに見つめる人もいれば「それで、貴方の家具はどうなるの?冷蔵庫が欲しいのだけど、」と早々に物資の交渉に入るしたたかな人もいた。感情一つとっても、こんなに人によって違う。そういう様々な反応を見ながら、私は『どれだけ彼らのリアルに近づけていたか』という問いを持て余していた。

青年海外協力隊としてアフリカに来て、1年半が経っていた。ちょうど自分のやってきたことに無力感を感じていたところだった。お米の普及や農家グループの運営、精米機の管理等が要請内容だったが稲作というキーワードだけでは全くと言っていいほど生活向上には結びつかなかったように感じた。稲作を普及したとしても天水田であるため気候や土地の環境に大きく左右された。運よく稲作が成功して収穫高が良かったとしてもそこからどう売るか、運送コストはどうするか、誰に売るか等によっても得られる利益は変わってくる。そして利益を得たとしても、そのお金をどう無駄なく使うかという事を知らなれば、ただ意味のない投資や、お酒などに消えていくのであった。つまり、果てしない彼らの生活の流れにどうやって関わればいいのか途方に暮れていたのだ。

彼らは私の活動に感謝してくれたけれど、いつも私は懐疑的だった。私が村人であれば、とりあえず支援されるのであればもらえるものはもらっておきたいと考える。そう考えれば、とりあえず感謝しておいてコネクションをつなげておくことは生きる上での彼らの戦略でもあったのかもしれない。

そもそも彼らの生活を彼らが立ち止まり、思考し、選択する前に変えてしまってはいないか?彼らの幸せとは何なのか?そもそも、稲作である必要はあるのか?そもそも。。。。。私なりの、拙いフィールドワークを通して、より広い視野で彼らの生活を、彼らができる範囲で改善していく必要があると感じている矢先であった。(もちろん、もし、活動の目標を『農民生活向上』と置くのであれば、の話であるが…。)

『途上国の人々との話し方~国際協力メタファシリテーションの手法~』という和田先生、中田先生が書いた本がある。とても好きな本であり、一方で苦手な本でもある。ページをめくるたびに、いちいち彼らの文章が突き刺さる、カロリーの要る本だ。国際協力を行う人にとってとても重要なことが書いてある一方で、自分の愚かさや未熟さ、ふがいなさに自然と気づいてしまう。辛くなるし、みじめにもなる。でも同時に、また明日はこれをやってみようとか、ここを改善してみようとか、そう思えるような本。

もう少し、頑張りたかった。でももう、タイムリミットなのかもしれない。

10月帰国であることに変わりはないから、活動の日々が削られていることになる。日本の桜をぼんやり見ながら、一瞬、あの日々は夢だったのかと思うことすらある。もう一回、頑張りなおせるだろうか。もう一回、ここから気合が入るだろうか。自問自答しながら、たぶん大丈夫と思いながら、二週間隔離の日々を過ごしている。



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